生よ、生者の望みの喜びよ 第四部

第四部 監視者の話(二〇四八年、二ホン)

 

 1

 

 望んでいたのは静かな青い日々だった。虫が顔のまわりで遊ぶようなそんな季節じゃなくて、もっと涼しくて蛙の鳴き声がきこえてくる前の季節。そんな季節に、白い外壁に赤い瓦で葺かれた屋根のある家で窓を開け放ちサッシを閉じ、白いカーテンがふわりと空中でとまるその下で、青い畳に座って本を読んでいたかった。読む本は『西部戦線異状なし』。

 本が読める状況というのは、二種類あると思う。

 極度に追い込まれているか、極度に暇を持て余しているかのどれかだ。

 サリーヌは、前者だった。彼女は黒い瓦礫と折れた木でできた柱のあいだに座っていた。おそらく幸いなことにその夜はあたたかかった。だから野宿もできた。サリーヌのまわりにはサリーヌのように野宿をしている人々がいた。そこかしこで、青い光や黄色い光や朱色の光が輝いていた。虫の声が響いていた。囁き合っているようにもきこえたし、うめいているようにもきこえた。しかしもしかしたら、わざわざみんなで耳をすましあっているのにわざとりーんりーんと虫がその涼しげな鳴き声を響かせていたのかもしれない。そのせいでその静寂がいっそうさみしいものになっていた。サリーヌは、白い光を灯していた。このさき、いくらでも、この光が必要となるときがくるだろう。それでも、サリーヌは白い光を頼りに、本を読んでいた。その本は火の手があがったときにサリーヌが服かなにかの下に入れて守ったのであろう。とてもきれいな状態だった。ただサリーヌが触ったせいで、すこし、汚れていた。『人間失格』。この状況で読むその本は、どれほどの救いを彼女に与えるのだろう。あるいはどれほどの絶望を。サリーヌと同じような奇特な人間を知っている。鬱から脱け出せないときに医者に状態を説明するのがめんどくさくて差し出したのが、『アサイラム・ピース』だとか。そいつに言わせると、絶望が続く、その広大な砂漠の真ん中に水もなしに息をし続けなければいけないようなそんな過酷さがきちんと目をそらさずに描写されていると、そいつは言っていたけれど、そのまんまいま言ったことを医者に説明すればよかったんじゃないか、と返すと、口を開くことがまず困難だったんだよ、と言ったきりそいつはむっつりと口を閉じてしまって、そのあとのそいつとの仕事が滞って仕方がなくなってこっちが閉口した。

 そんなことはどうでもよくて、サリーヌすらどうでもよくて、それはよくある光景で、しばしばこちらが戸惑うほどに大人しく礼儀正しい彼らの国民性なるものを表すただの傍証にすぎないわけだ。立証するにもほど遠い。実はサリーヌの心のなかは煮えたぎっていて、主人公が苦境に追い込まれれば追い込まれるほど、喜んでいたのかもしれない。そんなことは、きっとだれにもわからない。神のみぞ知るってやつだ。

 本題はここからだ。

 サリーヌたち、現実逃避者たちの横をひとりの現実直視者が歩いていたと思ってほしい。

 いや、彼もある意味、現実逃避をしていたのだ。ただその逃避の仕方が現実を記録するという逃避の仕方だったのだ。よくあるだろう。たいへんなときにカメラを回していて、それがニュースに使いまわされるってこと。もちろんそうやって現実に目をやっているようでレンズごしに現実と自分を一枚隔てて切り離し、自分というあやふやな存在を守ろうとした、そういうやつでは彼はなかった。もしくは自分を守るなんてそんな器用で機転の利いたことができるようなやつではなかった、と言うのが正しいのかもしれない。

 バッテリーが切れれば終わりの充電池のプラグをどこにさせばいいか分からないこの状況で、彼はひとりむき出しの義手を振って歩いていた。礼儀正しいサリーヌたちは、彼を襲おうなんてそんな大それたことをしようとはしなかった。サリーヌたちにとっては、六時間後にはそれはただの人の手に似せたなにか役立たないものに変わるだけだったからだ。でも、義手をその右腕にさげて歩いている彼にとっては違った。この右腕の先から見える世界、その義手のなかにある十を超えるカメラ、それがうつす膨大なデータ、それが、だれかの役に立つものであることを彼は知っていた。それが重要で、むしろそれだけが大切なことであった。

 壊れてない建物もいくつかあった。どうしてこうなったか。それに対する明確な答えを彼は有していない。ただ突然空から〈光〉が降ってきたかと思うと、その〈光〉は建物を溶かし、人を焼いた。人が焦げたであろう死臭、それだけがかの者がそこにいたであろう痕跡となった。〈光〉は地上のはるかかなたから降ってくるようであった。〈光〉の先になにがあったかを見たものはいない。それを見たものはおそらくもうすでにこの地上を歩いていない。歩いていたとしたら、それはもはや人ではないなにかだ。もうあなたは人としては死んだのだ、と教えてやりたい。そうすれば、かの者たちは救われるだろうか。

 彼はある建物の前で立ち止まった。その建物の外壁は煉瓦で覆われているように見えた。随分古い建物だ。だけどでかい。一枚の大岩のようにその建物は鎮座していた。彼のいる場所からでは横に広い一棟の建物があるようにしか見えなかったが、その建物は、いくつもの棟がその後ろにつながっていた。建物のまわりをいくつものテントが取り囲み、人がうごうご動いていた。

どんなにひどい状況になっても、配給というのは行われる。どこかの外国の親切にみえる人たちが食料をもってきてくれる。そのとき、大事なのはそういう人たちが降りることができるであろう広い敷地を持つ病院か学校に行くことだ。水は飲んではいけない。川の水を飲みたくても飲んではいけない。そういう大変なことが起こったとき、みなが川に殺到するであろう。川でさまざまな用が足される。お前がよほど人がいない山にでもいない限り、川の水は飲んではいけない。大して免疫もないくせに寄生虫と共生したいってんなら止めやしないが。彼はそう教わっていた。

 建物は病院だった。まだ〈光〉が降っていなかった。たしかに、ここに配給は来るだろう。しかし、ここが溶けて消えてなくならなかったのはたまたまで、いつまたどうなるかは、分からなかった。一番安全なのは、外資系企業が入っている建物か政府の庁舎だろうが、そこには一般人はまったく近づけなくなっていた。行けば撃たれる。死にたければあそこに行けばいい、という言葉をだれか年寄りが言っていた。掃除がほんとにめんどくさいんだ、くさいし、と民間軍事請負企業に勤めて庁舎にはりついている人間が言っていた。

彼は建物のまわりをめぐった。中に入る場所を探しているようだった。玄関には、やはり見張りが立っていて、入るには一筋縄ではいかない様子だった。

 夜が明けるにはまだ少し早く、寝入るには遅すぎる時間だった。

 彼は、一本の木の根元に座りこみ、かついでいたナップサックを地面におろした。彼を歓迎するように大きな葉が一枚、彼の上へと落ちてきた。彼はそれを手に取ると、その葉をかじった。青臭いにおいが口いっぱいに広がったのであろう。彼は口に含んだそれをすぐに地面に吐いた。その葉を放り出した。彼は腕くみをしてじっと義手に内臓されているカメラを見た。なめらかな義手の表面には二十代後半とおぼしき彼の顔と、その肩に乗る蜂の姿が映し出されていた。蜂は生きているかのように、そろそろと彼の肩を動いたり、止まったりした。蜂といってもその大きさは、手のひらほどもあり、明らかに普通の蜂ではなかった。彼は蜂が這い回るのをなんら気にする様子もなく、じっとただ己の義手を見ていた。あと数時間でバッテリーが切れる。この、緊急時に電力を供給してほしいとは、彼は言わなかった。彼はナップサックから手で握れる大きさの木でできたものを取り出した。彼はそれを掴んで手を振り下ろした。刃が出てきた。

 その刃でこんこんと義手の上を叩いていく。内臓されているカメラの上。カメラはどんな角度になっても彼の顔が見えるように腕のなかに配置されていた。彼は見張られていた。常にだれかに見られていた。この義手を使い続ける限りは、そうしなければならない決まりだった。彼はナイフを義肢に対して垂直に立てると、ナイフをまっすぐ上にあげて、振り下ろした。

 彼はひとつずつ、ひとつずつ、カメラを破壊していった。最後に検分するときには、生身の左腕の断端部にしこまれている電極を破壊したわけでもないのに、右手で左の義手だったものを持ち上げなくてはならなくなったぐらいだ。どうやら壊してしまったのはカメラだけではなかったようだ。役に立たなくなった義手をぶらりとさげたまま彼は立ち上がった。ナップサックは右肩にかけて、もはや意思が通じなくなった左の義手をぶらぶらさせながら彼は歩きだした。病院の入り口にはやはり見張りが立っていた。彼は両手をあげようとして、左手があがらないことに気づいたようでいったん足を止めたが、やがてそのまま入り口に向かって、歩きだした。

「とまれ!」

 言われた通り、彼は止まった。彼は少し息を吸って、そして吐いた。

「與儀医師にお会いしたいのですが」

「こんな夜中にか」

「ええ。緊急を要するのです。なにせ、ぼくの、この左手が壊れてしまったのですから」

 彼は右手で左の義手を掲げてみせた。ぱらぱらと砕けたカメラの破片が義手のなかから零れ落ちた。彼がそれを目で追うことはなかった。

「患者はたくさんいるんだ」

「いるでしょうねえ。でも、與儀さんはぼくに会いたがると思いますよ」

「なぜだ」

「この義手をとりつけたのが與儀さんだからです」

 見張りはふたりいた。今まで喋っていたのは、背の高いほう。背の低いほうが、ぼそぼそと隣の背の高いほうに話しかけているようだった。

「與儀さんに連絡してください。ぼく、ここで、待ちますから」

 彼はその場にあぐらをかいて座りこんだ。ここを離れる気はまったくない、そういう雰囲気だった。背の低いほうが一歩前に出た。

「お前の名は、なんて言う?」

「須賀家直起」

「すがや? 須賀家、須賀家か」

「たぶん、思ってる須賀家であってると思いますよ。連絡しますか、院に? 同じことです。與儀に会わせるように、と指示されるだけですよ。でも、確認してどうするかを決めるのがあなたたちの仕事でしょうから、そうしなければならないのなら、そうしてください。ぼくは、ここで、待ちます」

 背の低いほうが、病院の入り口のなかに入っていった。あぐらをかいた彼、須賀家直起は、右ひざの内側を器用に使って頬杖をついた。見つめるのは、やはり、左の義手だった。壊れて、動かなくなってしまった義手。直起は、義手をつけるのを嫌がった。最新型の義手ではなく、わざわざ古いタイプの義手を使っていた。脳のなかに電極を直置きする直脳義手ではなく、断端部に電極を埋め込むタイプ、にしてくれるよう、直起は請うた。そもそも、最初は義手をつけることすら直起は望んでいなかった。義手がないまま何年も生きていた直起は、義手は必要ないと言って憚らなかった。それどころか、カメラがいくつもその義手に内臓されるらしい、ときいたとき、直起は絶対に嫌だ、そんなものは嫌いだ、と言ってとりつけるのを拒否した。拒否したにも関わらず、直起が義手をつけることになったのは、直起と同じ境遇だった院の仲間たちが失踪していったことに端を発している。

失踪した者全員が、カメラつきの義肢を使用していた。直脳義肢。直起が使ってるタイプより新しいもの。脳のなかに電極をうめこんだタイプ。それを使用している者が次々と姿を消した。直起は、彼らの義肢のなかから見える彼らのくらしの映像を切り取って編集することを生業としていた。世の中の人々に、院から出てきた人間も、きちんと働くし、人をとって食ったりしないんですよ、ということを示すために。ほんとに人をとって身ぐるみはがして食うんじゃないか、と言ってきた人間もいた。その部分を直起はカットした。そう言われた人間が、泣き出したからだ。

直起は覚えていた。この仕事を始める前に、院で書かされた作文を見た人間が、これを書いたやつに会いたいと言ってきたときのことを。

「みなさん、興味を持ってお読みになりますが、ここには、ほんとうに大切なことはなにひとつ書いてないんですよ」

「それがいいんじゃないか! 誰にも共感したくないんだよ、僕は!」

 その一瞬後に、直起は、あなたのもとで働きます、と答えていた。

 直起の義手に影が落ちた。病院の入り口は明るい。その光をでかい体がさえぎっていた。「お会いになるそうだ」

 直起は立ち上がった。さっきは無礼なことを言ってすまなかった。あれも仕事なんだ、と、背の高い男は言った。気にしないでください、と直起は答えた。二人は連れ立って、歩き出した。背の高い男は、顎に手をやってしばらく黙ったのち、意を決したように話しかけた。

「気にしないでください、と言われて、尋ねるのもなんなんだが」

「なんでしょう」

「きみの肩にのってるそれ、ペットなのか?」

「蜂ですよ。単なる」

 直起は、ふさふさの蜂の首元をなでた。

「オス? メス?」

「メスです。オスは働かないんですよ」

「そうなんだっけ」

「そうです」

「きみはそれで心を慰められるのか」

「むしろ逆ですね」

「逆?」

「家族なんていないほうがいいと思います」

 かちりこちりかちこちり。

「あ! 動いた!」

「動きますよ。這い回るんですよ、こいつは」

「へえ」

「ほしいですか?」

「いや、要らない」

 入り口では背の低いほうが待っていた。無礼を働いてすまない、と開口一番そう言った。

「いえ、無礼なのは、こちらですから。夜中に押しかけたぼくのほうが無礼です」

「まあ、もう空は白み始めているがな」

 直起は空を見た。雲がかかっていて太陽は見えないが空の色は少しずつ薄くなっていた。

「須賀家直起、さん、だね」

「はい」

「わたしはきみが憎い。彼女が憎いからだ」

「はい」

「謝らないんだね」

「あなたのそれは八つ当たりですから。言うなら、ヴァンに直接言ってください」

「その呼び名のなんと不吉なことよ。わたしなど、その名前を口に出すことすらできない」

「そういう人はよくいます。そういう人から、最終的に、ぼくは、殴られるんです」

「最初に謝っておけばいいのかもしれないよ」

「それは何度も試したけど、失敗しました。殴られるのに、なんで謝らなければいけないのか、分からなくなって、もう謝らないことにしました」

「そうかい。わたしは殴らないよ」

「どうでしょうか」

「すがやさん」

 背の高い男が入り口のなかから、直起を呼んだ。

「與儀さんです」

 直起は、失礼します、と言って、背の低い男の横を通り過ぎる。この悪魔が、そう背の低い男が吐き捨てたが、直起はちらと背の低い男を見て、にっこりと笑ってみせた。知ってますよ、そう直起の口は動いたが、それは声にはならなかった。

 直起は取っ手の左右に無数の穴があいたもの、すなわち電話の受話器を手にした。こっちが上であってますか、と背の高い男に確認した。あってます、と背の高い男は言った。よく間違えるんです、ありがとうございます、そう言って、直起は耳に受話器の上のほうをあてた。

「ぼくです」

「遅かったな。もっと早く来ると思っていた」

「三人です」

「なにがだ」

「ぼくが見ている目の前で彼らは、みずから義手を放棄して姿を消しました」

「おぬしも随分な姿になっとるときいておるが」

「ええ。理解できなくて、彼らの真似をしてみました。しかし、やはり、ぼくには彼らを理解することはできませんでした」

「理解しようとする姿勢は認めよう。だが、理解などするものではないよ」

「そのようです。いま、会えますか」

「タバコは持ってきたな」

「その準備が一番大変でした。おかげですっからかんです」

「よろしい。衛兵に代われ」

 直起は、背の高い男に受話器を渡した。ふーと長い息を吐いた。

「ご案内します。須賀家さん」

ナイトホスピタルですか。こわいな」

「幽霊ですか。そんなもの見たことありませんよ」

「いえ、自殺しようとして突然飛び出してくる、人間が」

 怖いのです、と直起が言うと背の高い男は一度口を閉じてから、こちらです、と言った。

 

 

  2

 

 そこは、おおよそ人が使っている部屋には思われなかった。雑然とした、というより、わざわざ汚くした感じだ。いたるところに紙が散乱し、いたるところで本が開きっぱなしにされており、いたるところに飲みかけのカップが洗われないまま、置かれてある。床にはカルテらしきものが落ちていた。汚くしようと思わなければ、どうやってこの惨状にできるだろうか。情報管理という概念は、この部屋の持ち主のなかでは、いったいどうなっているのだろうか。

「裕福な暮らしですね」

 座ることもなく、ドアのすぐそばで立っていた直起はそう言った。

「まあ、当然だ。国から金も出ておるしな。しかし、タバコ、これだけは支給されん」

 部屋の真ん中に鎮座する幅広のコの字型の机のなかで男は、座椅子に腰かけていた。禿げて耳の上の髪が白くなった男は吐き出した煙を満足そうに見ながら、そう言った。

「あんまり吸いすぎると禿げるって知ってますか」

「知らん。おぬしのまわりにおらんだけじゃろ。わしほど長生きしとる人間が」

「かもしれません」

「五十五で長生きとは、今はほんとにわしらが夢見た未来かの」

「現実です」

「夢のほうが現実なんじゃないかと思うよ、ときどき」

「夢など見ませんから、分かりませんね」

「若いのう」

「もう二十七です。巷ではぼくも年寄り扱いされてますよ」

「若い」

 直起は黙って右手で蜂をなでた。かちりこちりかちこちり。

「その蜂はなんじゃ?」

「十六歳の男の子がつくったおもちゃです」

「ペットか」

「ペットではありませんね。心は慰められませんから」

「なぜペットが人の心を慰める必要があるんじゃ」

「そうでないとペットでないらしいです」

「不思議じゃ。のう、その左腕はもう使い物にならんのう」

「なりませんか」

「ずいぶんとひどいことを」

「自分でしたことですから」

「金も時間も資源もかかっとる。愛着と申し訳なさはなかったのか」

「でも役目は十分に果たしてくれましたから。もっとひどいことに使われるより、こいつも本望でしょう」

 直起は蜂から視線を男に移した。

「さて、さきほど言った失踪した三人のことですが、その三人の顔を、ぼくはカメラ越しに見ていたのです。カメラにむかってナイフがつきささる。ぼくがつい先日までいた部屋の巨大なディスプレイの画面で見ていました。なかなかない体験でしたよ。突き刺さらないと分かっていても、怖いものですね」

「そうかね」

「はい。でも、もっと怖い体験をぼくはしました。話をしてもよろしいでしょうか」

「言うてみ」

「ありがとうございます。ヴァンに会いました。画面越しですが」

 男は鼻と口から煙を出した。

「彼女が幽霊なら、ぼくは怖くなかった。だけど、ぼくは知っていました。院にいた連中のなかにヴァンがいた組織と同じ組織にいたやつがいたから。そいつからヴァンが、最後には、性欲のはけ口として使われていた、と、火でその体を焼かれ、体にやけどを負った後、組織からゴミのように捨てられた、と。その手で直接、ヴァンを火であぶったやつがそう言っていました。だから、間違いないんです」

「足はそもそも切りおとされていたな」

「爆撃でなくなりました」

 直起はよりかかっていたドアから背を離した。

「でも、あったんです。彼女には足がついていた。それどころか、彼女はあのときの、ぼくらがいっしょに暮していたときと変わらない姿で、ぼくの前に現れました」

「若さを保つ方法があるなら、わしはまずまっさきに自分の頭に試しとるね」

「なにをしたんですか」

 煙が天井をゆらゆら揺れて霧散した。

「あなたは、ヴァンたちになにをしたんですか」

「ということはきみは、自分がなにをされていないか、知っている、ということじゃな」

「拒否しましたから」

「挙句、木端微塵にしとるしな」

 男は直起の左の義手を見ているようだった。

「なにをしたんですか」

「本人が直接説明するのが、よかろう」

 男は立ち上がった。椅子が後ろに下がったことでぶつかった本が何冊か落ちた。男はそれを拾いあげるでもなく、自分の足元をじっと見ていた。机上には、まず白い手が出てきた。次に頭。黒くて長い艶やかな髪を持った頭。胴体。二本の白い足。その頭がくるりと直起にふりむく。その顔は、直起を認めるとにっこりと微笑んだ。

「ヴァン」

 ヴァンと呼ばれた少女にしか見えないその女は、机の上に座った。すらりと長い足がぶらぶら揺れた。白い顔に赤い唇がゆっくりと動いた。

「久しぶりね」

「感動のご対面にわしは邪魔かの」

 女は体をくねらせて、うしろに立つ男を見あげた。

「いいえ。いてくださいな、與儀さん」

「そうか」

 そう言って、與儀は少し後ろに下がった椅子に座った。女はひねった体をもとに戻し、正面から直起を見た。直起も女を見ていた。女がすっと右腕をあげて、人差し指を直起の肩のほうに突き出した。

「その蜂は?」

「ペットさ」

「さっきはペットじゃないって言ってた」

「蜂型の増幅器だ」

「じゃあもうお役ご免なのね」

「やらないよ」

「いらないわ。そんなかわいくないもの」

 直起も、女も黙った。與儀はずっと目をつむって、じっとしている。

直起が口火を切った。「どうして、お前はその姿のままなんだ」

「直起が使ってた義肢は、古い義肢。機械の、古い義肢」

 女はぶらぶらさせてた足を空中で止めた。「わたしの新しいあしは、本物のわたしのあし」

「どういうことだ」

ニューロンは新生する。たくさん生まれて、たくさん死んでゆく。それは、発生初期だけに起こる現象ではないの。成体になってからもそれは起こる」

「つまり?」

「新しい義肢を使うには、脳に電極を移植する必要があった。でもその電極が動いてしまって、必要以上に脳を損傷するのは避けたかった。だから」

 女は足をだらりとたらした。與儀を横目でちらりと見てから、直起を見る。

「あみあげたの。電極のまわりをニューロングリア細胞でおおったの」

 直起は、右手を頭にあてがりがり頭を掻いた。

「それはただ、電極を固定するために行われたことだった。より安全に、より恒久的に、電極が使用できるように」

「俺はそんな手術していない」

「そう。あなたは拒否したから。でもわたしや、あなたの見ている前で義肢を破壊していった人たちはそうではなかった」

 女はうつむいた。その少し高い雨粒の弾けるような声音は、この部屋によく響いた。

「当時、電極を取り囲むニューロングリア細胞はだんだんと姿を消していくと考えられていた。電極を取り出さなければいけないときまでもてばよかった。だけど、増えたの。小さな電極を編みこまれた部位は、直脳義肢使用者が、義肢を使って訓練すればするほど、肥大した。まるで、自分たちも脳の一部だと主張するように。当たり前よね。だって、脳の組織と同じ組織を使ってるんだもの。そうして人為的にしかし偶然に脳の一部がつくられてしまったの。その顕著な結果がこのわたし」

「足がはえてきたっていうのか」

「その通り」

「馬鹿げてる」

「でも真実。みんながどうして義肢を壊したか。それは、必要なくなったから、よ」

「何度でも言う。馬鹿げてる」

ニューロンが新しく生まれることだってばかげたことだとされていたわ。ニューロンが新生するなら、足だって新生したっていいじゃない。皮膚だってね」

「足が生えてきたやつなんてきいたことがない」

「わたしたちと同じになれば、わかるわ」

「ありえない」

「ありえないことが起こり得るのよ、この世界では」

 女は直起の左手だったものを指さした。

「見てきたでしょう? わたしたちは、ヒトを超えたの」

「いなくなったやつらは、それで、幸せになれたのか」

「さあ。幸せなんて、主観的であいまいな観念、わたしには推し量れないわ」

「生きてるのか、みんな」

「たぶん」

「カメラは、あいつらの行動を監視するためだけじゃない。あいつらを取り巻く環境を監視するために、あいつらに無体をはたらく輩を抑制するために、つけられていたんだ。そして、それは一定の効果をあげていた」

「あなたがきちんと仕事をしていればね。見たわ。映像。どうしてあんな綺麗なことばかりにしたの」

「それが彼らにとっての希望だったからだ。彼らは希望だった。希望でないといけなかった。院を出たあとでも、うまくやっていける、と、院を出たやつにも、そうでないやつにも、希望を抱かせるための」

「傲慢ね」

「なんとでも言えばいい。院から出所したやつでも、社会で認めてもらえると思えるなら、彼らは生きていけた。二度と、道を、踏み外すことなく」

「幻想ね。でも幻想が集まって期待になり、期待が集まって、現実に力を及ぼすことは、あるわね」

「それをお前は、壊したんだ」

「怒られても困るけど。彼らは自ら、破壊したのだから。守られるのはもうこりごりだったんじゃないかしら。ちゃんと親元から育って自分で生きていこう、と思えたのなら、それは立派な自立というものではなくて?」

「彼らがまともに働けるとは思えない」

「彼らの道を阻害しているのは、そういうあなたたちの考えのほうではなくて? 罪人の証拠の義肢さえなければ、なんでもできるかもしれないわ。しかも」

 彼らには、手や足がはえてきているのだから、そう女は言って、机から降り、一歩、一歩、踏める場所を踏み、歩いた。そして、直起の前まで来て立ち止まった。

 その白い両手で直起の顔を包みこんだ。

「いっしょに暮らしましょう。昔のように」

「どこで」

「どこかで。まだ、間に合うでしょう、わたしたち」

 直起は、右手でどん、と女を突き飛ばした。女は、うしろに倒れこむのをかろうじて防ぎ、その場にうずくまった。

「俺とお前が出会った十四年前だったらな」

 女の目が見開かれた。

直起は左腕の断端部を前に突き出した。

「とべ」

 直起の左腕の断端部にとまっていた蜂の頭がとれた。翅がヘリコプターのように回り始める。そして、とびたつ。

「お逃げください!」

與儀が叫んだ。蜂の飛行はなんとも頼りないものだった。

「こんなものが、なに?」

 拍子抜けしたであろう與儀はそれでも叫んだ。

「生物化学兵器かもしれません!」

 ふらふらと女の胸元にやってきたそれを女は両手にそっと包んだ。女は顔をうつむかせて、それを見た。

「無様なロボット」

 その通りだ、と直起は言った。そして、かがんだ。女はうつむいたまま、顔をあげようとしなかった。直起は口を開いた。

「位置情報さえ分かればよかったんだ」

 伏せられていた女の顔がゆっくりと上を向き、目の前にある直起の顔と向かい合った。

「ヴァンは、今日、死ぬんだ」

 女はかなしげに微笑んで、うつむいた。

「これはお前の父親からの命令だ」

 女が蜂の形をしていたものを強く握った。

「あなたたちは、ヒトを超えてしまったのね」

「違うな。俺も、お前も、お前の父親も、お前の母親も、みんな普通の人間だ。だから、できたんだ」

 わたくしは音量をオフにした。画面は一瞬白く光ってから、砂嵐に転じた。

カメラを上空からのものに切り替える。

 病院は跡形もなくなっていた。

上空を飛んでいた無人機から〈光〉が落ち、病院は溶けた。

わたくしの同僚のパイロットが、地上から無人機を操縦し、〈光〉を落としたのだ。

 わたくしは立ち上がった。コートを羽織った。

「ホアさん、帰るんですか」

向かいの席に座る同僚の牧野が尋ねてきた。

「ええ」

「終わったんですか、編集」

 わたくしたちは、凶悪犯を捕縛、あるいは抹殺した際の、動画を編集して配信する仕事をしている。これは二ホン軍の広報の仕事のひとつだ。といっても、わたくしたちは下請けに出された仕事をこなしているだけだ。

「終わっていないけど、今日はもう帰るわ。お疲れ様」

「お疲れ様です」

 わたくしは、もう一度、モニターを見た。

 しずかに建造物が溶けてゆく。

溶けて白くなった建造物は、朝日を映して、藍色から茜色、薄紅色になり、最後に桜色に反転した。その映像に、青い桜がだぶって見える。青い花びらは端から茶色く変色してゆく。腐り落ちてゆくのだと思ったら、雨が降って来た。青い花びらは雨に溶け、透明になり、白い花脈が浮き上がった。いくつもの透明な花びらが重なっている。綺麗だった。

だけど、彼らは死んだのだ。

わたくしは、うつむいた。目は閉じなかった。まだだ。まだだめだ。

 望んでいたのは静かな青い日々だった。

どうしてこんなにも遠くまで来てしまったのだろう。

二階から一階に下りて、外に出る。

やわらかな雨に包まれる。しめるだけで、濡れはしない。

空を見上げても、雲は見えない。なのに、どこからか、雨が降ってくる。

全てが薄い靄に包まれているようだ。過去も、今も、夢も、現実も。

溶けかけて半壊したビル。

クレーターのように穴があいた土地。

座りこみ、手を合わせて天を仰ぐ浮浪者。

下卑た笑いを浮かべるカーキ色の服を着た男たち。

春を売る、派手な服で着飾った女たち。

この二ホン軍の敷地の中に住む人々は、すっかり時間感覚というものを失ってしまっている。いつだって、人々は起きている。

わたくしは、女たちに近づいた。

「何か用?」

「その服を売ってほしいの」

 女は赤いワンピースを着ていた。裾が前だけ短く切られていて膝と太ももがあらわになっていた。わたくしはコートをぬいだ。

「このコートと交換して」

 女はコートを受け取った。グレイのコート。吉岡にもらったものだった。

「いいわ。こっち来て」

 女の後について、建物の前まで来た。そこは春をひさぐ女たちが住むための建物だった。

 赤く塗られた外壁はところどころ剥げている。でも、落書きなどはされていない。建物の前には花壇があり、紫陽花が咲いていた。青い。建物の中に入る。階段は黒く、縁が銀色だった。まだ夜ではないから明かりは点らない。昔と変わっていなかった。

「あんた、ホアだろ」

「わたくしのこと、知ってるの?」

「あんた、有名だったもん。男も女も相手にするって」

「そう」

「いま、何してんの」

「男に囲われて、仕事してるわ」

「じゃあ昔と変わんないのね」

「そうね」

わたくしは笑った。可笑しかった。直起とHoa Anh Binh Minhと暮らしていたときにはもう戻れない。もう二人ともいない。

「ねえ、もうひとつ欲しいものがあるの」

「なに?」

「コンドーム」

「囲われている間は、他の男と会わないほうがいいんじゃないの」

「じゃあ、あなたが相手してくれる?」

 女は階段を昇るのをやめた。体をひねらせて、じっとわたくしを見た。

「コンドームはただでやるよ」

 女は言った。

「ただでなんてもらえないわ」

「あんたのこと、知ってる。あんたにはまったら、ぬけ出せないって」

「大丈夫。今回限りよ。ぬけ出せるわ」

「どうしてそう言い切れる?」

「もうひとつ欲しいものがあるの」

「なに」

「必ず死ぬ性病にかかっている男を紹介して」

 女は黙ってわたくしの顔をじっと見た。

「きれいなあんたとやるのは、あたしが最後ってことね」

「そういうこと」

 女はわたくしの顔に右手をのばした。頬を撫でられた。

わたくしはその手を両手で包んだ。

「あんたの手、あったかいよ」

「ありがとう」

女の手が離れた。女は前を向いた。階段を昇る。女の赤いハイヒールが階段の銀縁をきらめかせる。

綺麗だと思った。

 

 

   3

 

わたくしは、軍の宿舎で、電気も点けず、赤いワンピースを着て、吉岡を待っていた。

玄関のドアが開いた。吉岡が部屋の電気を点けた。吉岡はわたくしを見て、驚いたように立ち止まった。

「その服、どうしたんだ」

「もらったの」

「何でまたそんな服」

「綺麗に見えるでしょう、足が」

 わたくしは足を伸ばした。義足と足の境目が見える。吉岡はそんなことには興味がないように、靴を脱いで玄関を上がり、わたくしが座るソファーの前まで来た。

「今日、早く帰ったんだってな」

「知ってたの」

「牧野が連絡してきた。具合、悪いんじゃないかって。大丈夫か」

「あなたに早く会いたくて、会いたくて、会いたくて、仕方なかったからよ」

 わたくしと吉岡は見つめ合った。

 わたくしは立ち上がり、吉岡の肩に手を回した。吉岡の唇に口づけた。少し強く吉岡の唇を噛んだ。血の味がして、口づけをやめた。わたくしは自分の唇を舌でなめている間もずっと吉岡を見ていた。吉岡は、わたくしの背中と足に手を回し、わたくしを抱き寄せ、わたくしの口に口づけた。

 わたくしは、口の中に入れてあったコンドームを噛み切った。縛って袋状にしていたコンドームから溢れた血を吉岡に口移しで飲ませた。吉岡がわたくしを離そうとしたが、わたくしは離れなかった。舌で血を彼の喉の奥に押しやった。さっき傷つけた彼の唇を血のついた舌で舐めた。

 わたくしは吉岡から離れた。

 吉岡は、げほっ、ごほっと咳きこみ、口から血を吐き出すと、走って、洗面所に行った。水の流れる音がする。

 わたくしは右の掌にコンドームを吐き出した。真っ赤な血にまみれていた。

「どうして」

 戻ってきた吉岡がわたくしから距離をとって、わたくしをにらんでいた。

「わたくしも、あなたも、苦しんで死ぬべきよ。辛い思いをして、痛い思いをして、苦しんで死ぬべきだと、そう思ったからよ」

「治療を受ければ」

「わたくしがさっきまでどこに行っていたか分かる? わたくしが前に住んでいたところよ。あなたが死ぬしかない性病に感染しているって触れ回って言っておいたわ」

 吉岡が拳を作り、わなわなと震わせていた。

「軍は感染者を嫌う。治療は受けられないかもしれないわね」

「どうしてっ」

「どうして? それはね、あなたが、わたくしの娘の父親だからよ」

 吉岡は口を開けたまま黙った。

「わたくしの名前は、ヴァン。ホアじゃない。ヴァンよ。あなたは、そのことを知っていた。知っていて、黙っていた。知っていて、わたくしに、わたくしの娘と直起を見殺しにさせたのね。それだけなら、わたくしはこんなことしなかった。だって、あなたを恨んでも仕方がない。あなただって命令で動いている。大本を叩かなければ意味がない。わたくしがこんなことをしたのは、あなたが、娘の父親だったということよ。直起が教えてくれたの。あなたは、わたくしに親を殺させて、わたくしをさらって、わたくしを輪姦した男たちの一人だったのね」

 わたくしは、乱雑な部屋の中で朦朧としている男から血を抜いたことを思いだした。彼は、わたくしを見るなり、泣き出した。赦してくれと言った。赦さない、とわたくしは言った。彼は泣いた。彼もまた、わたくしを傷つけた一人だったのかもしれない。

「あの日から、わたくしは地獄を歩いている」

 吉岡は、手で目を覆った。

「お前だって、何人もの人間を殺したじゃないか」

「そうよ。でもわたくしは、そのことを少しも後悔していなかった。恐ろしいことよ。少しも後悔していなかったのよ。ほんの、これっぽっちも。わたくしは、分かっていなかったの。ずっと分かっていなかった。直起と娘のHoa Anh Binh Minhが死んでやっと理解したの。人が殺されるということを、やっと、理解したのよ。わたくしは罰せられるべきよ。生きながらに、地獄を味わうべきだわ。でも死ぬべきじゃない。生きなければいけない。生きて苦しまなければいけない。そう思ったの」

「出て行け。出て行けぇっ」

「あなたは、直起に、輪姦した足のない少女のことを自慢なんかすべきじゃなかった」

 わたくしは、玄関で靴をはいた。後ろから抱きすくめられた。

「待ってくれ。出て行かないでくれ。悪かった。ひとりにしないでくれ」

 吉岡が泣いているのが分かった。わたくしは吉岡の腕に血で真っ赤になった手を重ねた。

わたくしの肩に吉岡の指が強くくいこんだ。わたくしは吉岡の手に真っ赤な手を重ねて、その上におでこをのせた。吉岡の指の力が弱まった。わたくしは吉岡の手からわたくしの体をそっと離して、立ち上がった。

「さよなら」

 わたくしは、ドアを開けた。吉岡の慟哭がきこえた。ドアを閉めた。階段を下りる。白い階段。白い光。建物の外に出る。空一面が雲に覆われていた。雨が降っている。

 わたしはかがんで、水たまりに真っ赤な手を浸す。

 青い桜の花びらはまだ見えなかった。

 わたくしは、泣いた。うずくまって顔を腕の中に埋めて泣いた。

 誰も、わたくしのそばにいない。

 たったひとり。

 それだけが、救いだ、と思った。

(了)

 

生よ、生者の望みの喜びよ 第三部

 

第三部 囚人の話(二〇三九年、二ホン)

 

0(二〇三九年)

 

 あんたたちが本当に知りたいことなんてのを俺は語りたくなんざない。

 語った瞬間に本当のことっていうのは失われる。

 それはそうだ。

 だって誰か一人の目を通して見たものは、どうしたってそいつの物語にしかなりえない。

 物語は小説で、小説はフィクションで、フィクションは虚構だ。

 いかにも本当にあったかのように見えることであって、本当のことじゃない。

 そうだろ?

 あんたらが本当に知りたいのは、あの爆弾娘が本当に死んだのかどうかってことだろう。あいにく俺はあいつが息絶えたところを見ていないんだ。見てないものは語りえない。

 だから、俺はあんたらが知る前のあの娘のことを語るよ。

耳かっぽじってよく聴いてほしい。

 誰があの娘を作ったのか。

 そうだな。

誰かさんがあんたらのうちの誰かだったら面白いな。

殺してやりたいぐらい、面白い。

 

 

 1(二〇三〇年)

 

 ぼくらの遊び場はそこしかなかった。桜の老木の下とその周辺。そこは中庭だったんだ。ぼくらが住んでいる施設の真ん中にある真四角な中庭。中庭には、土があった。緑色の草が生えていて、たんぽぽの黄色い花が風に揺れていた。空を見上げようとすると、桜の木の枝と葉と花が目についた。ぼくにとっての空は、すこし靄がかかった青色と桜の色だ。

 だからそこに降ってきたそれをぼくは鮮烈に覚えている。

 ぼくの両親は死んでいた。そういう身寄りのない子とか、何らかの事情で親元から離れている子たちがこの施設で暮らしていた。そこで、ぼくらは、毎日毎日同じ注意を言いきかせられていた。

「いいか、ぼうずども」

 そこには女の子もいくらか混じっていたけど、おじさんはぼくらをぼうずと呼び続けた。

「それが起こったら、逃げろ。自分の姿を隠せ。そんときは、どこの家に入ってもいい。穴んなかに入るのもいい。分かったか?」

 どこの家にも避難用の地下壕や、地下シェルターがあった。ほんとは外に出ないでそのなかにひきこもっているのがいちばん手っ取り早いのだが、ぼくらはこどもだった。外に出て遊びたかった。こどもが持つ当然の権利だ。運動してからだをつくる。学校なんてものは、もうやっていなかったから、運動をするには自主的に行わなければいけなかった。もちろん、勉強も。

「はい! はい!」

 ぼくは手を挙げた。ぼくらは大人に質問することで大事なことを学ぶ。生きのびる上で、大事なことを。必ずしも、すべての大人が、それを知ってるわけじゃないけど。

「『それ』って、どんなことが起こるの?」

「あれが来る」

 きゃーと女の子たちが声をあげた。『あれ』は、たくさんの人間を乗せることができる乗り物。バスだ。トラックだ。クルマだ。『あれ』が来たらぼくらは逃げなければならない。さらわれたら終わりだ。ぼくらはどこかに連れていかれ、反政府組織の兵士に仕立てあげられ、女の子たちはその花嫁にされてしまう。ぼくらは、『あれ』にさらわれてはいけない。

 ぼくらは大切な資源なのだから。

「来ればいいのに」

 女の子にしては低い声が聞こえた。

 ぼくは後ろをふりむいた。ヴァンが体育座りをして、膝の上にあごをのせて、床を見ていた。じっと。ふいに、その黒目が動いてぼくを見た。いつものようにその目の上にあるまぶたがしわを刻み、彼女はぼくに笑いかけた。「どうしたの」

 なんでもない、とぼくは言い、前を向いた。気持ち悪かった。まずどうしてぼくのうしろに座っているのかが分からない。ヴァンを避けようとしているぼくとは違って、ヴァンは、気づいたら、いつも、ぼくの近くにいる。たぶん彼女はぼくを見て面白がっているのだ。なぜなら、ぼくは彼女の双子の姉のことが好きだから。

 ホア。

 花って意味らしい。ホアは窓の近くに座っていた。ホアの座るその場所からは、庭を見渡すことができた。そして、ぼくの座る場所からは、ホアの右巻きのつむじがよく見えた。ぼくの後ろに座るヴァンの場所からはぼくとホアの姿がよく見えるのだろう。嫌な趣味だ。

 ホアは明るくて、ヴァンは昏い。なんでヴァンは、来ればいいのに、なんてことを言うのだろう。なにも起こらないほうがいいに決まっている。ぼくの父と母みたいに突然殺されるなんてことがないほうがいいに決まっている。父と母はふたりで喫茶店をやっていた。しずかに、かれらは生きていた。なのに、突然いなくなって死体になって発見された。それはひどい死体だった。生きていた頃につけられたであろう傷は流血し腫れあがっていた。

 ぼくは気持ちが悪くなった。だから吐いた。

 それを思い出しては、胸が悪くなる。気持ちが悪い。一時期、吐き癖がついてしまって、吐血するようになったのにはまいった。血は嫌いだった。ぼくのなかにも赤い血が流れているのかとおもうと、ぼくも両親たちのようにからだを切り裂かれて死んでしまうんじゃないかと想像してしまって、気持ち悪くなった。だから吐かないようにがんばった。胸の悪さをうったえたら、薬をおじさんに与えられたから、それをのんだ。早く治るように祈りながら。

 背中をさすってくれたのは、いつもホアだった。ヴァンは、それを横でじっと見ていた。最初は恥ずかしかった。でも彼女はなにかを小声で歌ってくれた。その歌声はぼくの背中をさするなんてなんでもないことだし、ぼくに興味がないんだと示しているようだった。目だけでちらりとホアを見やると、ホアのつむじが見えた。ホアはぼくの背中をさする間、ぼくから顔をそむけていたのだ。それに少し安心し、少し戸惑った。背中をさすられるうれしさより恥ずかしさのほうが勝っていたけど、ぼくはされるがままになっていた。

 それが、ぼくが、ホアを盗み見るようになった理由だ。ぼくにまったく興味がないのに、背中をさすり続けてくれた女の子。それがホア。そして、その妹の二つ結びの女の子、それがヴァンだった。

 ホアとヴァンには、親がいる。だけど、この施設に預けられている。親があまりにも忙しいからだ。

 この施設にはこの姉妹以外にも双子がいる。

 人工授精っていうのは、双子が生まれやすいらしい。

 だから、この施設には、双子がいるし、双子の片割れもいる。片割れの場合は捨てられたのだ。育てられないという理由で。親は、勝手だ。

 相変わらず、ホアの頭頂部が見える。そんなに窓ばかり見ていたら、どこかで見張っているかもしれない兵士たちに目をつけられてしまうんじゃないか、とぼくは不安になった。ホアは綺麗な子だ。綺麗だというのはそれだけで、狙われる理由になる。兵士への褒美としてそれほどふさわしいものは無いからだ。そうぼくらは習っていた。

 ホアが立ち上がったことに最初に気づいたのはだから、ぼくとヴァンのふたりだったろう。ホアは立ち上がってなにかを言った。

「どうして」

 言葉をききとることができたらしいヴァンが、驚いたような声をあげた。ホアは部屋から中庭に出ることができるドアをあけた。

「おい、どこに行く」

 おじさんが声をあげた。ホアはドアから出て中庭に走り出た。

 ぼくらも立ち上がってホアを追いかけた。

 ホアは庭に立った。そして両手をかかげた。まるで空から降ってくるなにかを受け取ろうとするように。ぼくは空を見上げた。白い花に見えた。その間に、ぼくの横をヴァンがすりぬけて行った。

「ホア!」

 ヴァンの叫びはだけど爆発音にかき消された。ぼくはそれを自分の目で見た。白い花がホアの手に触れた途端、ホアの手と頭が消し飛んだ。血がぼくの足元まで飛び散ってきた。きこえてきた叫び声がだれのものだったか、ぼくには分からない。白い花はそこらじゅうに散っており、そこらじゅうから爆発音が轟いた。空気がふるえた。地面の振動が伝わった。叫喚はそこを地獄に変えた。ぼくはそこに力なくへたりこんでしまった。いっさいの、音を、ぼくの、耳は、遮断した。だけどぼくの目はぼくの脳に視覚情報を送ることをやめなくて、目の前で起こってることがまるで無声映画のようにぼくの頭に上映されてしまって。だから、ぼくのまえに膝から下がなくなって真っ赤な血を流しながら蛇のようにぼくのもとに這ってきているそれが人間で、しかもヴァンだとは、しばらく気がつかなかった。

「直起。ホア、死んだ。わたし、痛い」

 直起。須賀家直起。それがぼくの名前だ。父の名前と母の名前から一字ずつもらった名。

「わたしも、死ぬ?」

 ヴァンは笑った。どうしてヴァンの声はきこえるのだろう。こんなにうるさいのに、えらくはっきりきこえる。彼女の声だけが、なぜか。

 ぼくは立ち上がって、服を脱いで、歯でびりびりやぶいて、ヴァンのなくなってしまった足の上のほうを縛った。両足とも。余った布で傷口をおさえた。すぐにあたたかい血の感触が伝わる。おさえればおさえるほどにその感触はたしかになるのだった。いま思えば、ヴァンはまったく悲鳴をあげなかった。それは、非常にすごいことだった。

「ホアは、花になったんだね」

 それどころか、しゃべろうとしていた。言ってることは支離滅裂だったけど。そして、それはその場だけではなく、そのあともずっと続くなんてぼくは思ってなかった。

「名前が花だからな」

 人間製造工場。

 代理母を生業とする女性たちが集められて住まわされていた場所の名前だ。ヴァンとホアは、そこで生まれた。クオンおばさんは、一度、「工場」を逃げ出し、再び工場につれ戻された女性だった。そして、戻ったとき、お腹のなかにはすでにヴァンとホアがいた。ヴァンとホアは生まれてはいけない子だった。なぜなら、クオンおばさんはだれの代理もしてなかったから。ヴァンとホアはクオンおばさんの実子だった。規則ではそうしたこどもは堕胎することになっていた。代理出産を依頼する母親が、代理母に病気の子や障害のある子を堕胎するように促すように。でもヴァンとホアは生まれた。堕胎するにはもう遅かったのだ。

「直起。どこか、けが、した?」

 おかしなことを言うと思ったけど、たぶんそれはぼくの目から涙が流れていたからだというのは遅からず察しがついた。ヴァンはバカだと思う。ヴァンのほうが重傷に決まっている。血は止まらない。だけど、白い花は降り止んでいた。

「見ろ」

 ヴァンの顔をぼくのひざのうえにのせた。ぼくのゆびが指し示したさきを、ヴァンも見た。

 ホアを無数の桜の花びらがおおっていた。爆発の振動で落ちたのだ。

「ホアが桜に変わった」

 ヴァンのことばにぼくはうなずいた。あとで、ヴァンが正しく現実を認識できなくなっていたことを知ってからは、あの、はなびらにつつまれたホアの姿を見せたことを後悔した。ヴァンは、ひとは死んだら、はなびらのかたまりになると今でも信じこんでいる。

 ぼくは知らなかった。なにも知らなかった。その日、はなびらを散らした犯人は国籍も製造元も明記されていない無人機を操っていた。それが日本のものなのか、反政府組織のものなのか、国外のものなのか、分からなかった。いまでも結局だれの仕業だったのか分かっていない。でも、たぶん、だれでもよかったのだ。それをうまく利用したやつは、それをそいつがやったかどうかには関係なく、権力を掌握できた。なんだ。人間ってのは、こんなに簡単なのか、と思った。そのとき権力を掌握した人間をぼくが知ったのは、ずっと後になってからだったけど。いつごろからだろう。日本の海域に見つかった新しいエネルギー資源の採掘権を得た外国の企業とそれを守る民間軍事請負企業が日本にやってきていたのは。でもたぶん、そこからだった。ぼくらが外で自由に遊べなくなったのは。花に似せたパラシュート爆弾を空から降らせた人間と関係あるのかどうかは知らない。ただそれがそのタイミングで起こったことは彼らが開発事業を行うのに有利に働いた。それだけが確かなことだ。

 ホアは、死んだ。

 ヴァンは、生き延びた。クオンおばさんがやってきて、病院に連れていった。クオンおばさんは、いまや女性にとっての英雄だった。「工場」から、女性たちを解放したのだ。そしてその女性たちを働かせてやり手の実業家になっていた。金はあったのだ。

「直起くん」

 ぼくもなぜかヴァンが入院している病院に連れてこられていた。たぶん止血しすぎて手が真っ赤になっていて怪我人だと思われたからだと思う。

「はい」

 クオンおばさんは、まじまじとぼくを見つめた。ぼくの顔はそんなに珍しい顔だろうか。

「あなたの面倒は、わたしが見るわ。あなたの、お父様とお母様のぶんまで」

 流暢な日本語だった。

 でもそれはひいては、ぼくがヴァンの面倒をみることになるんだと、そのとき分かっていたら、ぼくはその申し出を断っていたことだろう。でもぼくは分かっていなかったから、はい、と答えていた。

 ヴァンが横たわるベッドの横にぼくは座っていた。ヴァンをよく見た。白い小さな顔に、黒い目がぎょろりと動く。口は少し開いている。ヴァンはホアに全然似てないと思って、思った瞬間にホアの顔がどんな顔だったか分からなくなった。イメージがつかめそうでつかめない。

 ぼくは窓の外を見た。赤い、でかい花がいくつもついた細い木があった。空を見上げた。

 青かった。

 ぼくは目をつむった。

ホアの顔を思い出せなかった。

 背中のあたたかさだけがまだかすかに残っていた。

 

 

  2(二〇三二年)

 

 ヴァンがさらわれたのは、俺が十一、ヴァンが十のときだった。俺はそのころ、もう自分のことをぼくとは呼んでいなかった。

 ヴァンは、ヴァンの母親のクオンを殺した。

 それがやつらのやり口らしい。やつらっていうのは、うろ覚えだが、なんとかかんとか独立解放戦線だったと思う。なんかエネルギー資源が埋まっている付近の独立を唱えた組織だ。そいつらは子どもをさらうとき、まず子どもの家族を殺させる。そして、帰る場所をなくさせる。つまりは、俺はヤツらからヴァンとクオンおばさんの家族だと認められなかったってわけだ。どうだい、どうだい。家に帰ってきたら、リビングは血の海さ。まずはだれが死んでるのかを確認して、それからいない人間を探した。見つかるはずもないと思いながら、一応、儀礼的に。

 おおかた、クオンおばさんを恨んだ人間がやったんだろうと思った。クオンおばさんは目立ちすぎた。クオンおばさんがどういうことをしてるのか、俺はその頃には分かっていたつもりだ。

クオンおばさんは「人間製造工場」をつぶした。もちろん実際には工場みたいに機械的にヒトがつくられているわけじゃない。クオンおばさんがファルマと呼んでいた企業は、日本に難民として逃げてきた外国人を保護し、職業を与えるっていうのを名目として、「工場」で彼女たちに代理母出産をさせていた。でもクオンおばさんは彼女たちに別の職業を与えた。そうして、「工場」はつぶれた。ファルマの損失はでかかっただろうし、企業ブランドのイメージの失墜はまぬかれなかった。それまでは、日本の人口増加の一翼を担う企業って言われてたのにね。おばさんも悪い。行き過ぎた正義は、だれかにとっての悪でしかない。

それで? おばさんが死んで、おばさんが経営していた企業は人手に渡った。金なんか一銭ももらえなかった。

ヴァンは、おばさん以外も殺していたからだ。

正確には、殺させられていた。

そして、それをみんなが目撃していた。ヴァンに殺されずに生き残った、殺された人の仲間や家族が。そのうちの何人かが俺の前に立った。生きてるだけありがたいと思え、と言って、蹴りを俺の腹にくれた。お前の妹は狂ってると言われて左手を折られた。その通り、狂ってるんです。そう主張することもできたけど、しなかった。家族を殺された人間の耳には届かないだろうと思った。政情は不安定、泥水すするような生活、反政府組織は人を殺し人をさらい物を略奪する、行き場のない怒りと悲嘆、それらがヴァンを許さなかった。死んだクオンおばさんが同情されることもなかった。そして、俺は血反吐を吐いて地面にころがった。折れた左腕が痛い。これから俺は歩き出さなきゃいけない。かえるんだって思って、折れた腕に添え木をして歩き出した。赤黒く腫れあがった腕は歩くたびにとても痛んだけど、歩くしかなかった。生きたいなら、歩くしかない。

俺は前に住んでいたあの施設に戻ろうとした。場所は覚えていた。三人で住んでいた家からそう遠くない場所だった。だけど、なにもしないでも脂汗が玉のように浮かんでは落ちる状況で歩き続けるのはそう簡単なことではなかった。

俺が休んでいる間に俺がさらわれなかったことは、俺の生きてきた人生のなかで起こった奇跡だと言っていい。ほんと、どうしてさらわれなかったのだろう。ひとりであの長い道のりを歩いていたというのに。あとになって神に感謝したのはこの時間だ。

たどりついたその施設は、ところどころ天井がなかった。いわゆる廃墟だった。桜の木も切られていた。その桜の切り株の周りには、バラックができていた。たくさん。こんなに、ひとは狭い場所で住んでいけるんだなと思った。バスを解体して作った小さな家、車を壊して作った小さな住まい、道路のコンクリをはいでつくった雨露をしのぐスペース。俺は、壊れた自転車でできた家と壊した家具できた家の間に座った。だれも俺に石を投げつけなかった。ただ膿んだ視線を投げかけただけだった。やがて俺は意識を失った。このまま死んでもかまわないと砂の地面のあたたかさを抱きしめながら。

俺を起こしたのはおじさんだった。おじさんは俺を立たせて、歩かせた。着いたのはおじさんが住んでいるボロ家だった。壁を背にしてトタン屋根と二つの柱、三方をおおうビニールが垂れ下がっていた。簡素な家だ。おじさんは、俺の腕を診て、お前の腕は切らなければいけないと言った。腐るよりましだとおじさんは言った。だったらそのまま死ぬほうがましだと言った俺の横っ面をおじさんははりとばした。一晩くれてやる、よく考えろとおじさんは言い残して、ふらりとどこかへ出て行った。

天井を覆う屋根のはしっこには隙間があってそこから俺は夜を見た。暗い夜。夜は暗くなくっちゃいけないと思う。照明弾や爆弾が落ちて明るい夜は落ち着かない。朝になってやっと眠ることができるなんて、身体の成長によろしくない影響を与えると思う。現に俺のからだはぜんぜん大きくならない。この上、左腕の切断だって? 勘弁してくれよ。死んじゃうよ、俺。左腕がない状態でどうやって重たい水を運べっていうんだ。料理だってどうやってするんだ。勉強だってどうやってするんだ。きっと仕事だってできやしない。俺はできなくなることリストを頭につらつらと思い浮かべていった。分かっている。それが無い状態で生きている人間だっているということを。特にここ最近はなにも珍しくない。健康に生きている人間のほうが珍しい。健康な人間だって性病にかかってることが多い。レイプは頻発しているし、それをやらかしてるのは自分が性病のキャリアだってわかってるやつのことが多い。そして、そういう人間は避妊をしない。少女から大人の女性まで、手あたり次第だ。でも彼女たちは、自分が病気かどうかなんてわからないし、検査だって受けようとはしないだろう。恥だと彼女たちは考えているから。レイプにあったことも、病気に感染していることも。そして、レイプによって妊娠した子を産むことも。増えてるんだ実際、子どもを産む母親は。かつての人口増加政策なんかいらなかったと思えるぐらい、子どもを代理母に頼らず自分のからだで産む女性は増えている。

人口は増えているのかどうか分からない。

だけど、そこらじゅうに、腹をすかしたこどもがうじゃうじゃしている。

驚くべきことだと思う。クオンおばさんは、それまで代理母をしていた彼女たちに助産師としての勉強と日本語の勉強をさせた。そして各地に派遣した。それがおばさんが行っていた事業。いまここにきて、急激に増えた代理母に頼らない出産をする母親たちは、代理母としての経験も長い彼女たちを頼った。俺は気持ち悪いと思った。自分で子どもを産むなんて気持ち悪いって。もちろん俺が子どもを産むことなんて今のところありえないわけだけど、その嫌悪感はちょっと消せそうになかった。他人を介在しない出産って、安全なのかな、って思った。お前にはOを受け取るための受容体が少ない。だからOを受け取る受容体を増やすための治療をお前は受けたんだよと俺の父さんは俺に言った。この病気は、母子感染をする可能性があると言われていた。俺たちは治療を受け、この病気を根治させた、はずだった。だけど、慎重を期して代理母出産に頼る人が多かったなか、この社会混乱が起こった。するとみんなふつうに産み始めたのだ。お金がない。施設がない。技術がなくなった。いろんな理由があるんだろうけど、俺が恐れているのは、子どものことなんかどうでもいい、産んでしまって、必要がなければ売り飛ばせばいい、それこそ反政府組織にでも、だって別に望んで産んだ子じゃないんだからって考えてる人が増えてるんじゃないかってこと。俺は反政府組織の人間より、そうやって、恐怖に慣らされてふつうの考え方ができなくなってる人間が増えていくことのほうがよっぽど恐ろしい。

「俺はおそろしい人間にはなりたくない」

「生きたいってことか」

 おじさんが戻ってきていた。おじさんは、俺が以前住んでいたあの施設が壊れたあと、行き場をなくした人たちにここの土地を提供していたらしい。変なこどもが入りこんだという通報を受けて、来てみればいつか見た顔だった。それが俺。そうして俺は保護された。おじさんが医者だったのは、俺にとって僥倖なのか地獄の始まりなのか、それは、たぶん、生き残った俺が考えることだ。

「俺は一度死ぬ。そしてもう一回生きる」

「明日だ」

 おじさんは俺に背をむけてねっころがった。寝たのかどうかは分からない。ただ俺は、黒い空をじっと見つめてその夜を明かした。

 

 

   3(二〇三二年)

 

 俺の一日は配給を貰いにいくところから始まる。

 水を入れたバケツを右手でもち、左腕の先端と脇でパンをはさむ。盗まれないように注意が必要だ。もう何度か盗まれた。だから俺も学習して、ものすごく朝早く配給所に行って並び、盗みを働く子どもたちに遭遇しないように走って帰った。足があるって幸せだと思う。なくしたのが足でなくてよかったと思う。背も足も少しずつ伸びている。食べ物は少ないし、成長痛だか幻肢痛だかなんだかでそこらじゅう痛いけど、なんとか生きている。

「坊主。そのパンくれよ」

 俺の頭はシラミ対策で丸刈りにしてあった。坊主頭であることに異論はないが、パンはやれない。俺はバケツを置き、ポケットから煙草をとりだした。男の目が輝いた。子どもにはこれが通じない。だけど大人はバカだ。

「一本しか入ってない。パンとタバコ、どっちがいい」

「タバコをくれ」

 俺はタバコに火をつけた。男がかがんだ。男の口にタバコをくわえさせてやった。男には両手がなかった。男はうまそうに煙をはいた。俺はその間に、バケツをつかみ、パンを抱えなおして、走り出した。男は追いかけてこなかった。今度からパンを見えないように運ぶ工夫が必要だと思った。

「おじさん。戻ったよ」

「おお」

 俺はおじさんの前にパンと空になった煙草の箱を置いた。

「なくなったか」

「うん」

「なんか布、ない? パンを隠して運びたい」

「いっそバケツの水につけてもってきてもいいかもな」

 おじさんはパンでテーブルをこんこん叩いた。

「この硬さだ。そんなすぐにはふやけんだろう」

「試してみる」

 おじさんはナイフでパンを四切れ切ると、俺に三切れくれた。

俺は粉ミルクを沸かしてあったお湯に入れて溶かした。そして、そこに塩をひとつまみ入れた。そのスープを二つの皿に入れて、ひとつは自分の前に、もうひとつはおじさんの前に置いた。おじさんが手を合わせる。俺も手を合わせる。

「いただきます」

「いただきます」

 ぼくもおじさんに続けてそう言った。パンをスープにひたして食べる。相変わらずの不味さだけど食べないよりマシだと思って食べた。

 さっさと食べ終えたおじさんは必要なものを鞄に入れて立ち上がった。

「じゃ、あとをたのむ」

「うん」

 俺は先がないほうの腕を振った。おじさんは片手をあげてそれに応えて、出て行った。

 おじさんは近所のバラックの見廻りをしている。怪我をしたものはないか。病気のものはいないか。糞尿をきちんと回収業者に売っているか。なんと糞尿はエネルギーになるらしい。電気になる。電気になってもぼくらの暮らしにはちっとも役立たないけど、糞尿は重要な収入源だった。あと糞尿は、健康かどうかが判別できたり病気の兆候がいちはやくわかるものだ。だから、どんな様子だったかをきちんと見て、異常があればおじさんに知らせるようにおじさんはバラックのみんなに言ってまわっていた。そうでもしないと、もしなにか伝染病が入ってきたら、こんな狭い区画、ひとたまりもない。

 俺はおじさんが帰ってくるのをおじさんの家でひとり待つ。ヒマだから、俺はおじさんが持っていた英語という言語で書かれた本を、辞書を片手に読む。一時間に三行もすすまない。それでも俺には面白い。日本語と英語の二つの言語と歴史が同時に学べるからだ。英和辞典に出てきた分からない日本語の単語を国語辞典や漢和事典でひいて調べる。

 楽しい。

 辞書はぼろぼろになって背表紙が辞書本体から離れてしまったりしているけど、それでも楽しい。

 ひとりでそんなことに熱中していても大丈夫かって? 大丈夫。おじさんはそう遠くへは行かないし、異変があればすぐ分かる。それぐらい狭くて近い場所なんだ、ここは。

 近くでぎゃーぎゃー小さい子どもが走り回っている。それはいつか見た光景だ。

 あの桜の木のまわりで遊んでいた、俺たちこどもたち。

 どこにでも子どもがいる。大人は力なく横たわり、こどもたちを眺める。

 こどもは資源なのだ。重要な。供給可能な。でもひとりとして同じ子どもはいない。

 ホアのことをときどき考える。

 どこにいる? なにしてる? なにをみて、なにをはなしてる?

 そんなおかしなことを考えている。思うに俺は実験していたのだと思う。ホアだったらどう考えるか、ホアだったらどう行動するか、それを考えることによって、ホアの視点つまり自分の中の他者の視点を獲得しようとしていたのだと思う。客観的な視点を俺のなかに構築したかったのだ。それは成功したと言える。たぶん。ちょっと特殊な形だけど。そしてもうひとり。あいつのことも考えていた。

 ヴァンのこと。

 ヴァンはなぜあんなことをしたのか。

 俺はもう知っている。おじさんに言いきかされたからだ。ヴァンを恨んではいけない。ヴァンはしたくて殺したんじゃない。殺させられたんだって。だから、恨んではいけない。彼女はかわいそうな子なんだ。せめてお前は彼女を許せ、と。

 許すも許さないも、そんなことでヴァンを恨むものか。

 ヴァンは、ヴァンだ。

 少しの間、俺の妹だった女の子。

 だけど、彼女は何人もの人間を殺した。何人も、何人も。

 それって、やれと言われたからってできることなのだろうか。やりたくないって拒否することもできたはずだ。でも、ヴァンは拒否しなかった。殺した。親も含めて何人も。違うな。たぶん、親を殺させられたから、それできっと頭のねじがふっとんだんだ。

 俺の思考はここで止まる。

俺はヴァンの視点をとりこむことができない。なぜならヴァンがすることは俺の想像の埒外にあるから。頭のねじがふっとんだやつの思考なんて考えることもできない。

ヴァンは生きようとしたのよ。

頭のなかで声がする。これはホアの声。

生きようとしたってどういうこと?

これは俺の声。俺は、あたまのなかでホアと会話して思考するようになっていた。

 そのまま。じぶんの命をながらえさせようとしたってこと。わたしのお母さんが言ってたこと、思い出せるでしょ。

 クオンおばさんは言っていた。

 なにがあってもあなたは生きのびるのよ。たとえわたしになにがあったとしても。

 思い出したよ。そうだった。あいつはそう言われてた。

 たぶんこうじゃないかしら。ヴァンは言われたのよ。お母さんに、生きなさいって。生きのびなさいって。

 なるほどね。ありがとう、ホア。ねえ、ホア。

 なあに。

 無数の桜のはなびらが落ちてくる。

 なんでもない。またな。

 ホアが笑うイメージが俺のあたまのなかに生まれて消えた。俺は目の前の辞書を見つめる。俺は辞書をたぐる。V、A、N、VANを辞書で引いたら、トラックって意味だった。

「走るトラックだよ、まさに」

 俺は頬杖をついてため息を吐いた。

 

 

    4(二〇三四年)

 

 お気に入りの遊びがある。

 大きな川のそばに行って、上流から流れてくるものを眺めることだ。

眺めることだけじゃ遊びにはならない? そう、たまにはそれを拾ってみたりする。でも決して手では触れない。おじさんに言わせるとこうだった。

いまじゃ川にどんな有害物質が流されているか分からない。魚の専門家だったら魚でもとって調べてみたりするんだろうが、わしが言えるのは、川の水は飲むなってことだ。特に妊婦とこども。有害物質が流れてなくても、他人の糞尿が流れている可能性がある。病気になる。絶対飲むな。

だから水は飲まないし、なるべく手で触れないようにしている。俺が使うのはもっぱら木の棒だ。流れてきたものをそれでつつく。なんでも流れてくる。木の板。金属片。服。パンツ。パンツ! なんてこと! これを思い出すたびに笑いがこみ上げる。なんだってパンツ。どうしてパンツを流してしまったんだろう。パンツをなくした人は下半身丸出しで歩いてるのだろうか。大変だ! 下半身露出男が走ってくる! 違うんだ! 違うんだ! きいてくれ! パンツを川に流しちまったんだ! 

どうしようもなく気分が暗いときこれを思い出す。すると少し笑える。顔がにんまりする。するとそれまでの憂鬱な気分がどこかへ消え去る。そうやって、川を眺めていたときだった。水面に橋の上の人影がうつった。俺は橋の下のボロ屋敷の影に隠れた。そいつは、橋の下までおりてきた。そいつが俺のボロ屋敷の中を覗く。そいつの注意がボロ屋敷の中に向いた一瞬の隙をついて、俺はそいつの姿を見た。俺は思わず声をあげてしまった。

「ヴァン」

「直起」

ヴァンはそのまったいらな胸に赤子を抱いていた。

 ヴァンが組織から逃げて戻ってこれたのは、奇跡と呼んでいい。ヴァンがなにをされて、なにをうばわれ、なにをできなかったのか、それはこちらが推し量るしかないが、家族であるところの俺は、唯一ひとり残った家族である彼女を歓待するしかなかった。

俺とヴァンと赤子は、三人いっしょに川辺で灰色の川をながめた。ヴァンがその手に抱く赤子は川に手を伸ばそうとしていた。

「きれいな川だろ」

「桜は積もるかしら」

「どうかな。桜が積もってるのは見たことがないな」

「そう。じゃあ死んだ人は川には流れないのね」

「いや、そんなことはない。死体は流れているよ。たまに」

「じゃあそれは死体じゃないわ。生きてるのよ」

 いきてるのよ。

 ヴァンのほうがうまいわね。

 うるさい。だまれホア。

 ふふ、ふふ、ふ。

 俺はじぶんの頭のなかの声たちを整理して、いま、目の前の会話に注力する。

「お前が殺した人間は、みんな桜のはなびらのかたまりになったのか?」

 これはずっときいてみたかったことだ。

「ならなかった。だから、たぶん、みんな、そのときは生きていたのね」

「そうだろうなあ」

苦しんで死んだろうな、と俺は思った。

無い手を握ったり開いたりした。死んだ人間たちのことを思った。痛かったろうなって。

「これからどうするんだ?」

 俺はヴァンを見上げてきいた。ヴァンのほうが背が高い。いいもん食ってたんだろうか、って思う俺はひどくいじましい。

「手伝ってほしい」

「なにを?」

「これから、事業を起こす。お母様が、やっていたように」

 どうするの、直起。

 どうするもこうするも、たぶん、こうやって川を眺めてるよりは、楽しいよな、きっと。

「取り戻すんだな。あの家を」

「うん」

 赤子が泣いた。ヴァンが抱き上げてにおいをかぐ。顔をしかめる。

「くさいわ」

うんちだった。健康で素晴らしい。

 

 

     5(二〇三三年)

 

 おじさんが殺された。

 俺の人生はいつもこうだ。まだ十三歳になったばっかりだってのに、このていたらく。かなしいことにおじさんを発見したのは俺だった。

おじさんはバラックに戻ってこなかった。真昼になって太陽が空のいっとう高いところにあるってのに、おじさんは戻ってこなかった。どうもおかしいと思った。バラックを出て、おじさんがいつもやってるであろうように、他のバラックを見て廻った。

おじさんを見かけていかないか。

 見かけていない。

 おかしい。これはおかしい、と俺は思った。とりあえず、もう一度バラックに戻って、めぼしいものをバケツに入れた。辞書、本、パン、布、服、粉ミルク。金、はなかった。というかおじさんは必要なものは、でっかい黒い診察鞄に入れていたから、そこに大切なものはぜんぶ詰められているはずだ。

 嫌な予感がした。

 あのうるさすぎてなにもきこえなくなったながいながい一瞬を思い出す。

 はやくみつけないと手遅れになっちゃうよ、わたしみたいに。

 わかってるよ、ホア。

 俺はあたまのなかの会話を強制終了させた。バラックの外に出て、少しの間、住んでいたバラックを眺めた。

 隙間のある屋根。雨が降ると大活躍したバケツ。赤い屋根。風が吹かなくてまったく揺れないビニール。太陽のひかりを頼りに本を読む俺。俺があぐらをかいたまま、こっちを見る。早く行けよ、と言うように。俺はわかったとは言わないまでも頷いて、駆け出した。バケツにかぶせた布が落ちないように、慎重に。

 おじさんをどこで発見したかというとバラックからほど近い道路の上だった。

 おじさんはパンツ以外全部はぎ取られていた。口からたくさん血が出ていた。たぶん、口のなかに金歯かなにかあったのだろう。それにしてもパンツ以外ってすごいなあ。

 感心してるばあいなの? 診察鞄をさがさなきゃ。

 探さなくったってわかるよ。ここにはもうない。

 あるかもしれないじゃない?

 ないよ。

 ないのだ。死体の身ぐるみははがされる。そして使えるものは生きてるものが使う。

 そして、ここには死体しか残らない。俺は習っていた。死体には触れるな、と。どういう理由があって死んでいるか分からないのなら、触れてはいけない、と。

 おじさんが死んだ、あるいは動かない理由は、首の付け根から流れている出血にあると思う。あそこには、人間が生きるために必要な器官がつまっている。あそこをやられちゃ終わりだ。相手はプロかもしれないし、たまたまかもしれない。とりあえず、たぶん死因はそれだ。じゃあ触ってもいいのか? わからない。見た目ではわからないけど、もし、なんらかの毒物とか病気とかで死んでるんだったら絶対触ってはいけない。そしてそれを俺は判断できない。

 それにもうすぐあいつらがやってくる。

 あいつらが来るまえにおじさんに会えた俺は、しあわせだ。

 少なくとも、これからおじさんを探しまわらなくてもよくなる。

 バラックに戻ろう。はやく。

 おじさんを埋めないの?

 俺はふりかえった。おじさんは相変わらずパンツ一丁で寝転がっている。

 埋めちゃいけないってなってるんだ。死体回収業者がやってくる。そいつらが死体をもってくんだ。

 わたしもそうやって回収されたの?

 俺は見てないから分からないよ。でも、最後に見たきみは、美しかった。

「さよなら、おじさん。ありがとう」

 俺はそう声に出して、バケツを持って、足を動かした。それは次第に走る速度に変わった。急がなくてはならない。陽がくれる前に、バラックに戻らなくては。

 

 

      6(二〇三三年)

 

 事態は思っていたよりもはやく進行していた。

 俺はバラックの見えるところまで戻ってみた。そこにいたのはあいつらだった。ヴァンを恨んでるやつ。俺の腕を壊したやつ。

 腕だけじゃ足らないんじゃない?

 あたまのなかで、ホアがくすくす笑った。

 他人事だと思いやがって。

 俺はバケツを持って逃げるしかなかった。でもどこへ? どこにも逃げ場なんかない。俺は一瞬、家、に戻ることを考えた。でもそれは無理だ。あいつらはきっとあの家を見張ってるだろう。抵抗組織に入るでもなく、ひまなやつらのすることと言ったら復讐ぐらいのものだ。それは彼らの楽しみであり、その楽しみを俺が奪うことはできない。が、易々とそれを享受させてやるほど、俺の命は安くない。

 川に行こうと思ったのはそこが見晴らしがいい場所だからだ。だれかが近づけばすぐわかる。問題は病気にならないかってことと、虫が多いってことと、配給所から遠いってことだ。でも、パンは一つだけある。

 昔のお姫さんが言ったんだとさ。パンがなければケーキを食べればいいのよ!

 おじさんの声が頭のなかで再生された。しまった。とりこんでしまった。今度から三人で会話する形式になるのか。面倒だなあ。ってかケーキないし。パンしかないし。でもとりあえずパンはあることを有難く思う。よくやった自分。

 川は相変わらず灰色で汚かった。っていうか黒い。夜は、川はとても黒くなる。波頭だけが白く輝く。ここまで暗いのに、分かるもんだろうか、だれか人が来たら。

 でも袋小路にいるよりマシよ。

 だよな。

 俺は大きく息を吸って、吐いた。ゆっくり。

 慌てないで。落ち着いて。ゆっくり息を吸って、吐きなさい。

 母さんの声があたまのなかで再生される。俺はここで母さんの顔をもう思い出せなくなっていることに気づいてすこし泣いた。だれも話しかけてはこなかった。

 川辺におりる。

 今日からは、ここが俺の家だ。ちょっとくさいけど。まあ文句は言えない。

 

 

       7(二〇三四年)

 

 ヴァンはまず自分の家に帰ったという。

 よく生きてここまでたどりつけたもんだ、と俺は言った。

「だってわたくしのおうちはあそこだもの」

 ぎょっとした。なに。なんだって。わたくし?

「わたくしってなんだよ」

「わたくしは、わたくしよ。わたくしのこと」

 やっぱりこいつはとりこめない。俺は改めてそう思った。少女とおじさんだけで手一杯。

「ガキは泣き叫ばなかったのか」

「この子、ほとんど泣かないの。なんでかしら」

 親はだれなんだとか無粋なことは訊かなかった。かわいいピンクの頬をしたこの子を、まだ十二歳の小さいこいつが育てたのだ。いや俺よりは背が高いわけだけど、でも大人から見ればまだまだ小さいはずだ。

「親に似たんじゃないか」

「わたくしは泣くわよ」

「見たことねえなあ」

「直起と遊んでた頃は、泣くようなことなんてなかったもの」

 まるでたくさん泣くようなことが、この一緒にいなかった二年間のあいだにたくさんあったようだった。俺はその話には触れない。あまりききたいとは思わなかった。

「ごろつきが何人も住んでるみたい」

「家?」

「そう」

「なあ見ろよ」

 俺は無い手をひらひら振ってみせた。そこに手はない。

「これ、たぶん、そのごろつきのひとりにやられたんだ」

「そのごろつきならわたくしが殺したわ」

「は?」

「そのごろつきは、わたくしが、こ、ろ、し、ま、し、た」

 俺は頭をかしげた。

 やーい。女の子に負けてるっ!

 かわいそうになあ。おまえに護身術をもうちょっと教えてやりゃあよかったなあ。

 勝手にしゃべるんじゃねぇよ! この居候ども!

 俺は頭のなかの声を黙らせた。これはけっこう集中力がいる。ほっとくと、好き勝手しゃべるんだから、やつらは。

「お前が殺したってどういうことだよ」

「そのまんまの意味。殺されそうになったから、殺したの」

 そうしゃべる彼女の右手は彼女の赤子の頭をなでていた。その手が人を殺したのか。

「俺がどうしてごろつきにからまれたか、おまえ、わかるか」

「わたくしがそのごろつきの家族か仲間を殺したから」

「現実は認識できているのか」

「わたくしがどうして現実を認識できてないとお思いになって?」

「どうして殺そうと思って殺してしまえるんだよ、お前は」

 俺はかねてからの疑問を吐き出した。ヴァンは短く息を吐いた。

「殺すつもりでやらないとわたくしが死んでいた。それに殺しておけばしばらくは、わたくしを殺しにくるものはいない。見せしめになる。わたくしは、終わらせたの、戦いを」

「終わってないだろ、全然。まだいるんだろ、ほかのごろつきが何人も、家に」

「いる」

「そいつらはお前が殺したごろつきの仲間だろ。報復にお前を殺しにくるかもしれない」

「じゃあわたくしもあのごろつきにやられてあなたみたいに手をなくせばよかったの? 今ですら、この足は自由に動かないのに。どうやってこの子を抱き上げろというの」

 そうだった。ヴァンは両足ともなくしたのだった。だけど、彼女に、足は、ついていた。

「それは義足か?」

「そう。組織にいたとき作ってもらった」

 ヴァンは右足を曲げ伸ばしした。きれいだった。

「こんな義足をつくれる人間がトウキョウにまだいるのか」

「いるわ。金になるし、お金と紹介さえあればつくってもらえる」

「金か」

「あなたの手は残念だった。でも、お金さえあれば、あなたの義手、つくってもらえるわ」

「その金がないのはこのぼろ屋敷見ればわかるだろ」

 ヴァンは目を見開いてから眉根をよせて目を細めて、ぼくの顔に人差し指をつきつけた。

「あなたの日本語は間違っている。ここは屋敷なんかじゃない」

 俺たちは、橋の下にいた。すぐ横を灰色の川が流れている。俺のボロ屋敷は、ビニールと布と木でつぎはぎして作ったテントみたいな屋敷だった。

「きれいだろ。モザイク模様で。苦労したんだ。材料あつめるの」

 ヴァンは天井を見あげた。そこにはよく洗った青いビニールと黒いビニールと赤い布を草で編んだ布が広がっている。

「せめて桜の色だったらよかったのに」

「そんな贅沢言うなよ。お前、よくこのテントのなか覗く気になったな」

 そう言ってから俺はおそろしい仮説に行き当たった。でもたぶん正しい。

「殺そうと思ってたのか。俺を」

「あなたを殺そうとは思わない」

「その生き方、いつか自分に跳ね返るぞ」

「それまでにこの子が銃を扱えるようになっていればそれでいいわ」

 赤子を抱えて恐ろしいことを言うもんだ。赤子を抱えていればこそなのか? 理解できない。やっぱりこいつはとりこめない。とりこみたくない。

「それで、俺たちはいったいどんな商売をするんだ」

「あなたの仕事は当面ベビーシッターよ」

 俺はすごい顔をしたのだと思う。なんていうかウシガエルが鳴く感じの声を出した。

「仕方ないでしょう。わたくしのほうがあなたより動けるんだから」

「お前はなにをするんだ?」

「材料集めよ」

「何の?」

 ヴァンは、俺に赤子をおしつけた。まるでこれからずっと子守りなんだからそれに慣れろと言うかのように。俺はうへえって言って、赤子をたかいたかいした。赤子はきゃっきゃと笑った。ヴァンは立ち上がった。

「わたくしはお母様は間違っていたと思う」

「おばさんが?」

「こどもが殖える手伝いなんてしてはいけなかった。生まれたって、教育も受けられず、仕事もなくて、ごろつきになったり、反政府勢力の弾よけに使われるか、延々と大人の慰みものになるか、人知れず死んでいくかのどれか。これのどこがしあわせなの。だれが産んでくれってお願いしたの」

 俺は生まれてよかったと思っている。母さんと父さんのこどもでよかったと。たとえ、母さんとは血がつながっていなかったとしても、あの人たちといっしょに過ごせた時間があったからこそ、俺は、いままだ生きていられるのだと思う。希望をもって。

 ヴァンはちがうんじゃないの。

 おいおいワシとの二年間は無視か。

 そうおじさんのようないい人もいた。だけど、ヴァンはたぶん違うのだ。彼女は親を自分の手で殺さなければいけなかった。殺せ、と「組織」の人間に言われ、クオンおばさんには、あなたが死ぬくらいならわたしを殺しなさいとでも言われたのだろう。でも、そうすることをヴァン自身が望んでいたのだろうか。違うだろう、きっと。

「それで、世界相手に復讐か。どうやるんだ」

「自爆用ジャケットをつくってそれを売る」

「狂ってんな、お前」

「あなたはそれをとっくに知っていたのだと思っていた」

「知らなかったよ」

 ヴァンが上から俺をにらみつける。

「それで、協力するの。しないの。どちらなの」

「返答によっては俺を殺す?」

「わたくしじゃなくて、ごろつきが殺しにくるわ」

「楽だな」

「なにが」

「お前が、クオンおばさんを殺せてしまった理由がやっとわかったよ」

 俺は立ち上がった。赤子を抱えたまま。

「明日から子守りをする」

「ありがとう」

 俺は赤子を見た。緑色の服を着ている。泣き叫ぶこともなく、じっと俺の目を見つめている。

「なあ、こいつの名前はなんて言うんだ?」

「グエン・ホアアインビンミン」

 聞き取れなかった。

「グエンは、お前の苗字だよな。ホア?」

「ホアアインビンミン」

「それが名前?」

「そう」

「長すぎないか?」

「アインでいいと思うわ。ホアって呼んだら、ホアと同じになってしまうから」

「アイン?」

 赤子はにこっと笑った。

「笑った! 笑ったぞ!」

 俺はヴァンを見た。ヴァンはどうしようもないとでも言いたげな笑いを浮かべていた。

「この子の年頃の笑いにはね、意味はないそうよ」

「意味がないのにどうして笑うんだ?」

「意味がないのにどうして人間は生きているの?」

 ヴァンはもう笑ってなかった。その顔は美しかった。ヴァンは、いつの間にこんな凄絶な美しさを身につけてしまったのだろう。

つまらないことを言ったわ、とヴァンは言って、俺の手からアインをとりあげた。アインは、ヴァンのまったいらな胸に顔を埋めた。その小さな手がヴァンの服をぎゅっとつかんだ。はなさない、絶対に、そう言ってるみたいだった。

 俺たちは川を眺め続けた。空が曇ってきて、しかもここは橋の陰で川は黒く濁っていた。

「桜が積もればいいのにな」

 ヴァンはなにも言わなかった。なにも。

 俺たちが交わした言葉はあまりにも少なくて。もっと、なにか別のことを話すべきだったんじゃないかって思う。だけど、それは今になってから思うことだ。人間は、そのときできることしかできやしない。後悔がないかときかれたら、ない、だ。後悔などしている暇などこのクソ忌々しい生を謳歌している間にありはしない。ただ時折語りかけてくるだけだ。俺の頭のなかの声が。

 それでいいの、直起?

 俺は頭からこいつらを追い出す方法を探している。

 

 

        8(二〇三四年)

 

 俺たち三人があの家に帰ることができたのは、ヴァンと再会してからわずか一週間後のことだった。ヴァンがなにをしたのか。アインの声が頭のなかにこだましている俺にはそんなことを考える余裕はない。赤ん坊ってのは寝てミルク飲んでクソしてしょんべんして寝て暴れてミルク飲んでクソしてしょんべんしてミルク飲んで寝てクソしてしょんべんしてというのを永遠と繰り返す生き物だということがよくわかった。育児本が出せそうだと思う。『サバイバル生活における育児』。題名はこれだ。どうしてこんな面倒なものをヴァンのやつがしばらくの間でも耐えて育てることができたのか分からない。いや耐えられなかったのか? もしかして、だからやつが呼んでる「組織」ってところから逃げてきたのか? それとも子守りしてたやつが死んだとか? このガキの父親が死んだとか? 

だけど、案外、面倒みきれなくなって投げ出したのは組織のほうなのかもしれない。ガキではなく、ヴァンの。

 帰ってきた家のなかは惨憺たる汚さだった。家のなかのはずなのに! これは俺が耐えられなかった。川辺に住んでいたときのボロ屋敷だって、材料を全部きれいに水で洗ってから、屋敷づくりに使ったのに。

「掃除をする」

「あなた、いい主夫になりそうね」

 これ、おんぶひも、あとよろしく、と言い残してヴァンはまた家を出ていった。

 思うに許せないのは、蜘蛛の巣が天井にかかっていることだ! でも天井を掃除すると、ほこりが舞うし、ゴミが落ちてくる。こどもにほこりはよくない。しかし外にも出せない。まずはベビースペースってやつをつくらないといけない。しかし床も汚い。ベビースペースになるほどきれいな床がない! くそったれ!

 二度手間になるがこの際仕方がない。まず床を掃除して、天井を掃除して、そしてまた床を掃除する。床には、食べ物のかすやなんか汚いちょっと触りたくもないべっとりしたものやら汚れた服やらが転がっている。薬莢、って言うのか、そういうのもあった。あったって言うか、あっていいのか、これ? なんかタバコもたくさん落ちてるし。燃えるぞ!

酒瓶とかあるけど、手に入るとこ行けば手に入るんだな、こういうの。これからはミルクとパン暮らしが少しはグレードアップするだろうか。

 とりあえず、使えそうなものは洗っておいておくとして、どうしようもなく汚いものは捨てる。捨てる! ああ、物を捨てるなんて、そんな贅沢、耐えられない!

 しかし、もうこの家に住むと決めたのだ。この家に合う暮らしをこれから俺たちはするんだ。俺は右手で抱っこしていたアインを見た。アインの黒い目が俺を見た。

「よし、がきんちょ、いまからお前の叔父さんは掃除をする」

 俺はアインを背中におぶった。

「お前は後方支援だ! 寝ろ!」

「あー」

 こうして俺たちの家暮らしは始まった。

 

 

         9(二〇三四年)

 

 別に暮らしが劇的に改善したわけじゃない。相変わらず不味いかたいパンは食べていたし、粉ミルクも赤ん坊じゃないのに飲んでいたけど、おむつを洗わなくてすむようになったのには非常に助かった。今までは配給の水と貯めた雨水を使って布おむつを洗っていた。でもヴァンがどこからか紙おむつを仕入れてきてからは、洗濯をする時間が劇的に減って、自分の時間というものが持てるようになった。万歳! 紙おむつ!

 紙おむつがどこに行くのかというと、きちんとゴミ収集車が回収にきていた。ゴミってまだ収集してたんだ、と思った。なぜなら、ゴミなんてほとんど出ないからだ。使えるものはほんとに使えるまで使いつくすし、ゴミに出しても、一時間後に見に行ったら、ゴミ収集車が来るのは明日の朝のはずなのに、もうなくなっていた。あとかたもなく。紙おむつも。使用済み紙おむつなんていったいなにに使うんだろ。紙おむつテロ?

 そんなどうでもいいことを考えることができるのは、生活にゆとりがあるからだと思う。俺はまた本を読むのを再開した。細切れな時間を使って本を読むのはたいへんだったが、それでも、いつ来るともしれない襲撃に怯えながら本を胸に抱いていた頃よりはずいぶんマシだった。

 家に住み始めた最初のころ、ヴァンに訊いてみたことがある。窓を開けてもいいか、と。答えはノーだった。でも、あるとき、もう窓を開けてもいい、と言われた。季節はもう秋に入っていて、風がここちよく感じられるときだった。俺は窓を開けた。

 風が俺の頬をなでる。気持ちよかった。

 でも用心して、俺はすぐに窓を閉めた。まだ、怖かった。襲われるのが。

 情けないのね。

 俺ひとりなら別にいいんだ。でもアインがいる。こいつを守れなかったとき、ヴァンからどんな目にあわされるのかと思うと、どうもこわいんだ。

 このまま子守りをして人生が終わるのだろうか、と思うと変な気分になった。ヴァンみたいに暴れたいわけじゃない。だけど、なにか、できないものだろうか。もっと楽しくならないものだろうか。だれかと、頭のなかの誰か以外と会話ができないものだろうか。

 わたしたちじゃ満足できないってわけ。

 ワシが生きてればなあ、話してやるんだけど。

 そうじゃなくて。

そういうことじゃなくて。俺は本をもっと読みたいし、社会を知りたいんだ。学校に行けるもんなら行きたいけど、学校なんてきっとテロで狙われる最初のところだろし、そもそもいまはやってないだろうし、第一、アインの面倒見てたら、学校が開校されてても行けやしない。でもこの際だ。贅沢は言わない。なにかしたいんだ。なにか。

「ヴァン、俺は子守り以外のなにかがしたい」

 夕食を三人で食べているときに、俺はヴァンに話をした。ヴァンは目をそらした。

「その英語の本」

 そらしたわけじゃなくて、本を見ただけだったらしい。

「それを読み終えたら、次の本を持ってくるわ。覚えて、英語を」

「なぜ?」

「英語を使う人間が増えてるから。わたくしも話せるけど、教養はないわ。いつかあなたの持ってる知識が役立つときがくる」

「そうか」

「あなた自身は?」

「え?」

「今言ったのは、わたくしがあなたにしてほしいと思うこと。そうではなくてあなた自身がやりたいと思うこと、ないの?」

 思えば俺はヴァンに養われているようなものだった。住む場所の安全を保障してもらい、食事を与えてもらい、着るものもヴァンからもらっている。

やりたいこと。やりたいことね。

「いま読んでる本に、カフェが出てくるんだ。カフェをやりたい」

「それはいいわね」

 ヴァンは笑った。俺も笑った。いま俺はその頃の俺を嗤いとばしてやりたい。なにもみぬけなかった俺を、俺はわらいとばしたい。

思うのだ。

量子論なんかひっぱりださなくたって、俺たちは間違い続ける。俺たちが過去からなにも学べてないってことじゃない。いまはもう知恵も知識も得ようと思わないと得られなくなっている。過去にいろんな人が何十年も何百年も何千年もかけて編み出したことを俺たちは自然に継承できていない。学校に行けないのもそうだし、親のような大人がいないのもその原因だ。だから、俺たちは自分一代で身をもってでしか、学べていない。そんなのどんだけ時間があったって足りるもんか。そのせいで結果的に過去にほかの人間が間違いだと思った間違いを繰り返すのだ。何度でも。そしてそれは過去を学ぼうとした瞬間にやっと分かる。でも分かることは箱のなかの猫はもう死んでるってことだ。馬鹿馬鹿しい。

 だからきっとたとえ俺があのときべつの答えをしたとしても、たぶん結末は同じだったんだろう。でもそのときの俺はなにも知らなかったし、考えようともしない怠惰さの持ち主だった。

「酒でものみたいなあ」

「そのうちのめるようになるわ」

 アインが口をおちょぼ口にしていた。のめる? そう尋ねてきているようだった。かしこいガキだ。俺たちは粉ミルクで乾杯した。もちろんアインにものませてやった。

 

 

          10(二〇三九年)

 

 すべてが過ぎ去った過去のことだ。

自明のこととして、俺たちは、過去には戻れない。どんなに念じようとも、それは確かだ。そして、未来にも行けない。たしかにあるのはいまだけだ。俺たちは船に乗っている。それは止まれない船で、でも底に穴があくと水を延々とくみ出し続けなければいけない船だ。くみ出してもくみ出しても、それが外に出て行くことはない。俺たちは沈む。過去に、いまに、未来に。それでも俺たちは水のなかの息苦しさに耐えながら自分たちの手で水をかき、まえに進む。無駄でもなんでもなく、それが自然の摂理だと知悉して。

 

生よ、生者の望みの喜びよ 第二部

第二部 殺人者の話(二〇二一年、二ホン)

 

   一

 

 くだらない話がしたいとおもった。

心底くだらない話。

たとえば、そう、もし僕と彼女が結婚したとしたら彼女の名前は「ソウキソウキ」というキテレツ極まりない名前になってしまうとか、ネットさえなければ人間はしあわせになれたかもしれないのにね、ああ神様僕らからテクノロジーという名の利便性を冠した不便さを失くしてください、とかなんかもうそんな感じ。そんなくだらない話。ああそうだ、きっとそんな話をし続ければよかったんだ。ひとりの不幸な女とどうしようもない男の話なんかじゃなくて、たぶんそんな、くだらない話をし続ければよかったんだ。

そうすればどうなったかって?

分からないよそんなこと。

だけど、きっとこのつるつるした冷たい灰色の廊下を僕の血で汚すことはなかっただろうし、彼女のナイフが僕の首に突き刺さることはなかっただろう。ああ残念だ。それにしてもこのリノリウムの廊下は冷たすぎじゃないか。まあ、でも、僕にはこれぐらいで十分なのかもしれないね。人の体温は僕には熱すぎるから。そう熱すぎる。熱すぎて僕の心を簡単に変えてしまうのだ。変えないでほしいのに。そのあたたかさのせいで僕は、僕らは、きっと、お金を出したら物が買えてしまうくらい簡単に、僕らのこころを変えてしまう。変えてしまうんだ。それは変わってはいけないもののはずなのに。変えてはいけないもののはずなのに。僕以外の人間が、僕ら以外の人間が変えてはいけないもののはずなのに。だけど。だけどもういいんだ。僕はもうそんな愚痴は言わない。いや言えなくなっちゃった。だって僕の喉からは肺に溜めていたはずの空気が漏れてるんだもの。そんで肺はからっぽになってぺしゃんこになって吐き出す言葉は空中分解。ねえいまさようならってくちびるを動かしたつもりなんだけど、分かったかな。

伝わった? 

いいよ伝わらなくても。どうせ今までだって誰にも僕の気持ちなんか伝わってこなかったんだから。

それはお前のせいだろって?

そうだよ、僕のせいさ。

だって、僕にはこころなんて無いんだもの。

意思なんてないんだもの。

遺志はあるかもしれないけど、書き残すのを忘れちゃったから、やっぱりそれも無い。

ねえ死ぬってこんな感じ? そうかあ。だったらもう少し長生きしてみてもよかったかも。まあもう無理だけど。ねえ、僕、初めてなんだ。こんなにこころがからっぽになるの。このこころは今なら僕だけのものだ。

霞が、かかって、それが彼女の顔を隠して揺らして溶かして、そして、消した。だけど僕は熱を感じた。サワラナイデ、そう言えない僕のくちびるを僕は恨んだ。さわらないで、かなしくなるから。僕のこころを変えないで。きみのことを僕は恨みたくないんだ。だって、僕は、きみのことが大っ嫌いだったんだから。みずから望んで嫌いになったんだから。でも、触れられてしまったら、そのこころが変わってしまうかもしれないんだ。変わってしまったら、そっか。だから、きみは僕に触れたんだね。他の不幸な人たちにしたのと同じように。だけど、僕は、他の人たちとは違う。僕はしあわせだ。ずっとしあわせだったし、これからもずっと、しあわせだ。ずっと。

だから、きみはもう笑わなくていいんだよ?

 なんて、どだい無理な話だったね。これからもきみは殺し続けるんだろう、僕らを。

 さようなら、辻想起。もう二度と君に会いたくない。まあ会えないけど。

 きれいな白が僕の視界をおおって、僕をまっ白に塗り変えていく。

 しあわせだ。

 赤い手はもう見えない。

 

 

   二

 

 この街はちりくずからできている。おおげさに言えば星のちりくずだ。ほうき星と同じ。

だけど、誰からも見つけられることのないほうき星に意味なんて無い。だから、この街にも、この街に林立するコンクリートの建物にも、その中に所狭しと並列する人々にも、意味は無い。ただ在るだけ。それだけ。ただそれだけだと、オレは思うのだが、そうは思わないちりくずはどうやらオレより多いらしい。そして、そいつらと関わらずに生きるのはどうやら難しいらしいと悟ったのはだいぶ昔のことのようでつい最近のことだ。だからって世間を知らないおぼっちゃんと一緒にされてはたまらない。オレはただ単に世馴れしてないだけなんだから。そう、この掃き溜めの中でオレが息を吹きかえしてからまだたった二百六十五日しか経っていないのだから。まだ挽回の余地はあるやに思う。

二十七歳の秋。オレは公園にいた。芝生が風にそよぐのをただじっと見つめていた。そこにあの男がやってきた。それは唐突で、でもすぐ終わった。別に強姦されたわけじゃない。変な液体をかけられて、腹を刺されただけだ。腹を刺されたほうが気になって仕方がなくて、というか痛くて、あまりに痛くて、早く病院に行かないといけないと思っていたら、すぐ、いや実際にはもっと時間がかかったのかもしれないが、とにかく救急車が来て、オレを病院に搬入した。その間に液体はオレの体を侵食していた。壊死。オレの乳房は無くなった。オレの子宮は無くなった。オレの卵巣は無くなった。オレの事件以前の記憶は無くなった。それだけだ。それだけ。ただそれだけ。オレがこう自分にこう言い聞かせるのは、事件の夢を見た日の朝だ。その夢を見た日には決まって嫌なことが起こる。とても嫌なことが。一日が始まるのが憂鬱だけど、オレは言い聞かせる。だからなんだって。オレは何を失ったわけでもない。オレは取り戻したんだって。オレの人生を。オレの体を。オレの居場所を。幸せじゃないか、なあ、辻想起。そう自分に言い聞かせる。

「しかしまあ、追いかけっこしながら、思うことじゃあないわなあ」

「ナニをごちゃごちゃ言ってんだ。そこの角、曲がれ」

 オレたちは黒いビルの角を曲がった。本当は黒くないんだろうけど、周りの建物を映すミラーガラスは真っ暗な建物を吸い込んで、黒く輝いていた。

後から追いかけてきたヒールの足音は、戸惑うように、オレたちの周辺をうろうろした。

 ねずみ色のスーツの男が地下出入り口から出て行った。オレたちをいぶかしむように。おいおいそんなふうに後ろを振り返ってるとぶつかるぜ、と思う間に男は女にぶつかったようだ。男の謝る声がきこえる。

「くそっ」

 女の罵声が聞こえる。あんまり妙齢の女性が言うことじゃないわなあと思うが、ここでツッコミを入れていては、逃げ隠れた意味がなくなる。用心するように手で自分の口をふさぐ。ヒールの足音は去って行った。オレたちにGPSでもつけていれば見つけることができたかもしれないし、衛星から見張ってりゃ一発でばれたかもしれないが、まあばれなかったのだから問題ない。

光学迷彩、欲しいなあ」

「遠目からならばれんかもしれんが、こんなに近かったら意味は無いだろう」

「そうかなあ。なあ、カナダからメープルシロップ取り寄せるついでに取り寄せようぜ」

 光学迷彩メープルシロップは、今やカナダの専売特許だ。マスターはビルの地下出入り口の扉からそっと体を離して地上に続く階段の踊り場をのぞきこむ。オレも顔だけ出して地上を見上げる。月は輝いていない。地上からは死角になって覗きこめない出入り口の暗い角。そこにオレたちはいた。踊り場にそろりと歩み出たマスターは、オレに言った。

「輸入品を買ってるだけで、取り寄せてるわけじゃない」

 律儀な返事。最初はなんて他人行儀なんだと思っていたがどうもそれは彼の素のようだ。

「それでも喫茶店のマスターかよ?」

 マスターはオレを見て口を歪ませた。

「本職の片手間にやってる商売だ。悪いな」

マスターはそう言ってから階段を昇り始めた。オレもそれに続く。

 まだ安心できない。

 オレはいつマスターが銃で撃たれて倒れて死んでも、オレは関係ありません、一般人なんですというふりができるように、ゆっくり階段を昇る。

「上には誰もいないぞ。そんなに距離をあけて歩かなくてもいい」

 オレを見ることなく、マスターはオレにそんな言葉を放った。なんかむかつくなあと思いながら、歩調を速めた。ここでお前がばあんって撃たれりゃ終わりなんだぞ、と思う。追いついたオレにマスターは言った。「やっぱり外で活動するのは危険だな」

 今更ナニ言ってやがんでぇ。オレはマスターを睨みつけた。

「たった二日でこのありさまだからな。お前、やっぱ、病院戻れ」

 オレはマスターの太ももを蹴りつけた。びくともしない。様にならんじゃないか。せめてよけるとか、痛がるとかしてくれよ。

「護身術も身についてないみたいだしな、早かったな、お前をあそこから出すのは」

 オレは足をゆっくり地面に降ろした。マスターが歩き出す。オレは呼びかける。

「どこ行くんだよ。店ばれてんだぞ」

 女は突然あの店に現れた。オレが給仕係、マスターがマスターをしてるあのシケた喫茶店だ。今思い出してもむかむかする。辻想起はどこ、と尋ねてきた女は、オレですけど、とオレが答えると本物を出せと叫んできた。本物って、辻想起を名乗る女はオレしかいないはずなので、本当のことを答えたことでなんでそんなに怒られなきゃいけないのか分からない、と思考停止しかけたオレを遮ってマスターが答えた。

「店員に暴言を吐かないでもらえますか。警察呼びますよ」

 その言葉のどこが気に食わなかったのか知らないが、その後、女は手近にあった椅子をマスターに向かって投げつけた。ものすごい音がしたが、そちらに気をとられている暇はオレにはなく、女はオレに手を伸ばしてきた。その手に捕まる前にナイフが飛んできた。女とマスターが睨み合ったその一瞬のすきにオレは外に飛び出した。ばかやろうっというマスターの声が聞こえたような気がしたが、オレは気にせず走り出した。チキンレースの始まり。

マスターは振り返って、何の表情もくみとれない顔で言った。

「決まってるだろう。病院だ」

 もどっ、ん、の、か、ようぅ、と我ながらあまりにも情けない声を上げてしまった。その場にしゃがみこんで動けないでいるオレの上にかがみこんだマスターの影がかさなった。

「地下鉄は張られてるだろうから、タクシーをつかまえるぞ。立て」

 地下鉄なんか使わなくったって車を使うことぐらい女にだって予想できているだろう。だったら楽なのは、立ち去ったと見せかけてこの付近に潜んでおいて、オレたちが乗った車を尾行することのはずだ。そんなことはマスターだって分かっているはずだ。

「ちょうどいいだろう。病院なら、準備万端でお客様のお出迎えができる」

 ばきばきっと指を鳴らすのはやめてほしいものだが、足でもできるぞと言われて実演されたことを思い出した。いや今はどうでもいいことだ。

「戻りたくない」

「ワガママ言うな。お前の不始末だ」

 真っ白な部屋に、真っ白なワンピース、真っ白なベッド。

「かついで歩いてけって言うならそうするが」

 オレは侮蔑の気持ちを込めてマスターを見上げた。伝わったろうか。いや、伝わらなくったて構いやしない。自分の気持ちも他人の意思も筒抜けになってない世の中に乾杯を。

 マスターはオレの手をつかもうとして、つかむのをやめた。

「お前」

「なんだよ」

「におうぞ」

 オレの気持ちが通じたわけじゃなかったらしい。オレはため息をついた。

「そりゃペットボトル回収ボックスの中に隠れてたからな」

「不潔なモノには触らない主義なんだが」

 それはペットボトル回収ボックスに対する侮蔑かい?

「どうしてオレが隠れてた場所が分かったんだよ」

 マスターは自分の左腕にはめた腕時計のふたをかちりと開けた。それを地面にかざすと、地図が表示された。地上を斜め上から見てるような立体的な地図。そこの中心に、赤い丸い光と青い丸い光が重なり合っていた。はいはい。オレにプライバシーはありませんでしたね。諦めがついたところでオレは立ち上がった。ぱちんと音がして、いやに立体的な地図は消えた。マスターが歩き出した。オレはその後をのろのろついていく。ビルの薄い影の下に灰色を濃くしたような二人の影が伸びる。赤と青なら笑えると思ったら、マスターの影がオレンジになった。わお。表通りに出たのだ。明滅するライト。光の流線。マスターが手を上げて黄色いタクシーを停めた。マスターに促されてオレは後部座席に乗り込む。横からマスターも滑り込む。ただし、薄紙一枚の間をあけて。

「清歌大学病院まで」

「かしこまりました」

 無口なドライバーは、だいすきだ。オレは窓ガラスにほっぺたをつけた。車のテールライトが夜光灯と混じりあう。決めた。今度の病室の中のプロジェクションマッピングはこういう夜景にしよう。部屋に居ながらにしてドライブできるなんて、最高、だろうか。

「若いっていいですねえ」

 おしゃべりドライバーは大きらいだ。バイト着、つまり、エプロン姿のままだったのを思い出した。マスターも同じ。なんだ。ペアルックか? 痴話喧嘩にでも見えるってか、これが。

「いやあどうでしょうねえ」

 答えになってない答えをマスターが返した。オレは今すぐ眠りたいと思ったが、噛み砕ける睡眠薬も嗅ぐタイプも生憎持ってなかった。せいぜいこの夜景を目に焼きつけることに専念しよう。おそらく当分、外に出ることは叶わない。そう思うと、何もかもが貴重で大切でかけがえのないものに見えてきた。ただのちりくずのくせに。そうオレが感傷的になるのも、たった二日しか外に居られなかったせいだ。次はいつ出られるか分かったもんじゃない。きっと、出ようとする度にこういう目に遭って、そしてまた、病院に逆戻りするんだろう。オレの一生は、白い病室とそこで見る映像だけで構成されるのかもしれない。

 それは面白い映像になるだろうか。プロジェクションマッピングにできるような。

「もう着きますよ」

 赤レンガ様の病院。モザイク画のようだと思う。まだ光ってる病室がある。もちろんほとんどの病室は真っ暗だが。建物の真ん中らへんが目に留まった。暗褐色の海に漂う一艘の青い舟。

「あんなふうに見えてたんだな」

 オレはひとりごちた。四階の、ラウンジと呼ばれるそこは、半円形の空間になっていて、一面、ガラスで覆われている。非常灯がぼうっと光っている。まるでそこだけ切りとられて、青い舟が浮いているように見える。あ、見えなくなった。病院の夜間受付口の屋根が視界をさえぎったのだ。タクシーは停車して、マスターが会計をすました。

「あのタクシー、絶対儲かってないだろうな」

 珍しく同意見だった。ただもうどうでもよかった。早く眠りたいと思いながら、オレは地獄の門をくぐった。門には、ただの短期滞在ですからね、と言い聞かせた。門はただ黙ってオレを見下ろしていた。返事ぐらいしろよ、と悪態を吐いたが、やはり門は無言のままオレを見下すのだった。さようなら、外の世界。こんにちは、生き地獄。

 

 

   三

 

僕は辻想起に会いたいなんて思っていなかった。だから、病院の一階の廊下に留まった。ここで待っていると両親には伝えて、廊下に置かれた長椅子に腰かけた。そこからはガラス越しに中庭が見える。青々と茂る樹々は、四階までその背を伸ばしていた。だけど建物は五階まであるので、背比べには負けていた。もちろん僕なんかは勝てるはずもなかったのだけど、なんだか、僕が負けたような気分がして、少し、悲しかった。白い長椅子の座り心地は悪くない。皮張りの豪華な椅子。無数のサイコロが一つの長椅子を形作っているような。悪くない、そう思って僕は椅子を撫でていた。

「気に入った?」

 僕は顔をあげた。ガラスに人影が映りこんでいる。僕の真後ろ。僕は体をひねらせて、ふりむいた。

「気に入った?」

 彼女はもう一度僕に訊いてきた。気に入るも何も、と僕は言おうとしたけれど、その前に彼女は、横、座っていい、と尋ねてきた。僕はどうぞと言う代わりに少しだけ体を左にずらす。彼女は、僕の右側に座った。

「はじめまして」

 彼女の、顎先で切り揃えられた、暗い、灰色の髪が揺れた。

「その髪は地毛?」

 言ってから僕はしまったと思った。よく初対面の人間相手にプライヴァシーに土足で踏みこむような質問をする、と知人から怒られたことを思い出したからだ。大概、そういう注意はすぐには思い出せない。やってしまってから、思い出す。そして、また怒られる。それの繰り返しだった。僕は下を向いた。息が漏れる音が聞こえた。顔をそっとあげるとガラスに映る彼女は微笑んでいた。僕は横に座る彼女と目を合わせた。彼女は自分の髪を触りながら、言った。

「あまり、この髪の話題に触れる人間はいないよ。オレが一番気に入ってる看護師さんの森さんでも、悪趣味ですね、の一言だった」

 確かに。その森さんには同意したくなる。何のために、そんなことをしたのか。いや、その質問はプライヴァシーに立ち入りすぎだろうか。それに、今、彼女は、オレと言ったような気がするのだが。

「便利なんだよ。この髪型でいると他人はいかに他人をきちんと見ていないか分かる。オレをちょっと知っている程度の人間は、オレに気づかない。そして、大抵の人間は、ちらっとオレを見たら、もうそれ以上、オレを見ようとしないし、オレに話しかけてこない。便利だ。すごく」

 彼女は自分の髪を一房いじって弄び始めた。では、彼女に話しかけられた僕は、すごく幸運なんだろうか。たぶん、違うのだろう。彼女は一房の髪を三つ編みにしてその手を離した。でも三つ編みはほどけることなく、そのまま彼女の顔にかかった。彼女が頭を軽くふると、それはほどけた。彼女の顔が横を向く。つまり僕を見た。彼女の顔はとても美しかった。

「きみは今何をしているところ?」彼女がぼくに問いかけた。

「待ってるんだ。人を」僕はそう答えた。

「そう、じゃあ暇だろう。オレの話を聞いてくれないか」

 僕が答える前に彼女は話し始めた。

「ちょっと前の話だ。まだモクレンが咲いていたころの話」

 彼女は中庭を見上げた。僕もつられて見上げた。そこには花などなく、ただ緑の葉がさわさわとふるえていた。

 

 

   四

 

いい加減腕を曲げ伸ばしするリハビリにも飽きたオレは、売店へと足を向けたわけだ。別に目的があって行ったわけじゃない。ただの暇つぶしだ。この病院の売店のラインナップはそうそう大して変わらないから、新商品チェックはとっても楽だ。でも、店に着くと思い出すよな、自分が本当に必要としてるものは何かってさ。

「これください」

「紙袋にお包みしますか」

「おねがいします」

 店員さんにうなずいてから、オレはどうして生理用ナプキンは紙袋に包まれなければならないのだろうという疑問を抱いた。おかしいと思わないか? 資源の無駄だ。いい加減この売店にも中身が外から見えなくなる光学迷彩の袋でも置けばいいのにと思ったが、それはコストがかさみすぎるよな。っていうか自分が買い物袋を持ってくればいいだけだな、うんつまり結局はオレが馬鹿だって話だった。大概なんでも、考えてみると相手より自分のほうが悪いって話になる。何でだろ。他人の欠点を直すよりは自分を変えたほうが楽だってことか? 

六百八十円ですって声が聞こえたから、オレはワンピースの右側にあるポケットのジッパーを下ろして、そこからキャンディーを取り出した。店員さんは無言で微笑んでいた。どうして店員さんが無言に微笑むとあんなにこわいんだろう。オレはその棒付きキャンディーの袋を破いて口に入れた。カードを同じポケットから取り出してレジの画面に当てる。決済完了。買い物終了。

オレは口の中でキャンディーを噛み砕いて棒を口の中から取り出した。当たりなんて言葉は書いてあるわけもなかった。それからトイレに入って、ごみ箱に棒を捨てた。買ったばかりの袋の中からキャンディーをひとつ取り出して、またポケットの中に入れる。どうしてキャンディーをポケットの中にいつも入れておくようにしておくかっていうと、たまに頭にくる子どもに出会うことがあるんだな。だからだ。

例えば、いつも赤いニット帽をかぶってる女の子がいるんだけど、その子がトイレから出てきたとき、トイレが汚かったんだ。血でね。オレは訊いた。それ、最初から汚れてたの、って。知らない、関係ないって彼女は答えた。まあ確かに病院はいつも清潔に保たれているんだ。でもそれは定期的に清掃をしてくれるお姉さんがいるからで、でも、その清掃が次に入るのは二時間後の十一時だった。関係ないよ、確かにね、別に彼女は清掃員じゃなくて、オレと同じただの入院患者なんだから。でもオレは頭にきたんだ。世の中で一番悪辣なことは、自分は何も関係ないと思い込んでいることだと思う。自分は何にもやってないとか。自分は関係ないとか。その子はいかにもそう思ってるふうだった。だからかちんときたんだ。オレはその子にキャンディーをつきつけた。何よってその子は言った。今からオレが掃除するからそれが終わるまでの間、それなめてろって言った。清掃道具が入ってる場所は分かっていたし、清掃員さんの仕事を見てることもあった。だから手際は分かってたんだ。洋式便器を拭くためのシートを取り出して、便器を拭いた。一回じゃキレイにならなかったから、裏返して折りたたんでもう一回ゆっくり拭いた。それを捨てて、消毒液が入ってる霧吹きを便器に吹きかけてから新しいシートで丁寧に拭いた。ぴかぴかになったね。それからそのシートを裏返して折りたたんで、便器のフタの裏を拭いた。清掃員さんから案外一番そこが汚れてるって教えてもらったからね。でも、シートはきれいだった。フタは開いたままになってたから、血がつかなかったんだろうね。あと、清掃員さんが普段からきちんと拭いてくれてるからだと思った。そう思うとなんだか嬉しくなった。シートを捨てて手を洗って、オレは上機嫌で彼女に訊いたよ。おいしかったか、って。彼女はまだそこにいたんだね。こんなものいらないって彼女は言って、キャンディーを床に投げつけてドアを開けて走って出て行った。病院は基本的には静かだからね、走っていったのはすぐわかったよ。丸い平べったいキャンディーは割れてなかったけど、床の色とあわさって、なんか汚い灰色になっていた。だからオレもそのキャンディーをごみ箱に捨てた。まあ役に立たないこともあるけど、とにかく、キャンディーをポケットに入れるようにしてあるんだ。いつもポケットにキャンディーとナイフをね。ただの果物ナイフ。まあ、こんなもの使うより、キャンディーで済むならそのほうがいいだろ。

そんなわけですっかりキャンディーをとかし終わったオレは、顔をあげて上を向いて袋をふって、鼻歌を歌いながら三階の病室目指して階段をかけ上がった。リハビリと運動不足の解消になって一石二鳥なんだ。なーなななーなななー。オレはよく歩きながら歌うんだ。気持ちいいよ。

「辻さん」

 フロアに上がってナースセンターの前に来たところで呼び止められた。このナースセンターってやつはオレたち患者にとっちゃ、医者より大事だ。やつらはどこにいるかわかりゃしないし、何かあったときに駆けつけるのは救急車より遅いと患者の間では評判だったからな。だけど、ナースセンターに詰めている彼女たちは別だ。彼女たちはすぐに駆けつけてくれる。特に、どれだけ忙しかろうときちんと化粧をしている看護師の森さんは、患者の中で一番評判がいいんだ。クール・ビューティー。さっきも紹介したろ。オレのお気に入り。だからその森さんに話しかけられてオレは嬉しかった。たぶん内容はあんまり嬉しいものではないだろうと予想はしていたけど。

「ご存知だと思いますけど、ご来客です。ラウンジでお待ちいただいていますよ」

 左側のポケットから携帯用通信端末を取り出して画面を見た。来客あり。どうして気づかないものか。たぶん駆け上がってたからだろうな。

「バイブの活きが悪かったみたいです」

「いつも悪いみたいだから、いい加減修理に出したらどう」

 あなたの頭をね、って言葉が続いたら最高だったんだろうけど、さすがのクール・ビューティーも患者相手にはそこまで言わないみたいだった。オレは端末を放り投げて、手でキャッチした。別に壊れてはいなそうだと確かめるふりをした。森さんはその様子を面白くもなさそうに見てから言った。

「必要なら立ち会いますから呼んでください」

 そう言い残して、森さんはナースセンターの奥に消えていった。ほんとかっこいいよな。なれるもんならあんな女になってみたいよ。その背中に感謝の言葉を述べてから、オレはここで立ち止まった。迷ったんだな。一度、部屋に戻って手荷物を置いてきたほうがいいか、直接ラウンジに向かったほうがいいのか。オレは結局後者を選んだ。理由? なんとなくさ。理由なんて無い行動のほうが面白いことになるだろ。なーななーななー。オレは鼻歌を歌いながら目的の場所に向かったよ。

ラウンジは夕陽の光に満ち満ちていたね。ここが病院でほんとによかったわ、男を楽に口説ける、大概男のほうがロマンチストよね、この光景を見せてくどけば女なんてすぐ落ちるって思ってるんだから、でもおあいにくさま、その光景に酔ってる男を見て、馬鹿はかわいいわねって思いながら、綺麗ねって合わせてあげてるのはこっちのほう。ねえそう思わない? 彼女の手にかかってない男の医者はいないらしいという噂なんだか真実なんだかよく分からないものがついてまわる猛者に問われれば、その通り、その通りですとも、と答えるしかなかった。分かるだろ。彼女はこの病院に入院して十年目だった。何の病気だったかは知らない。そうだ、最近、もう会わないな。出て行けたんだろね、ここから。いいことだよ。たぶん、とても。まあ、ただ、ただその後に訊かれた質問には閉口したけどね。で、あんたはどっちが好きなの。少なくともきみでないことは確かだよ、お嬢さんと思ったけど、そのときは何も言わずに窓の外を眺めてた。彼女の気持ちも、その華々しい経歴にも傷をつけるつもりはなかったしね。まあとにかく、そのラウンジと呼ばれる半円形のこの半個室みたいになってるこの廊下は、夕方が一番綺麗なんだ。窓から見える川面が眩しくて目をそらしたときにとなりにいる人は最高だね。眩しさにさえ目をつむらなければ、隣人はきみのものだ。

 部屋には三人の女がいたよ。オレはそのうちの一人、ソファに腰かけた女を見た。女は、パンプスを脱いで、片足をソファの上にしどけなく投げ出してた。左耳に真珠のピアス。彼女は窓の外を見ていたんだ。

「壮観だろ。この場所がこの病院の中で、オレの、一番のお気に入りの場所だ」

 オレはその女に話しかけた。女の長くうねった茶髪は夕陽を吸い込んで、金色に輝いていた。女が振り向いてオレを真正面から見つめた。

「逃げないの」

 オレは彼女の横に座った。足をひらいて、深く腰かけた。よく看護師さんに注意されるけど、あれ、なんでだろね。両足の間のスペースに両手を置いてオレは彼女の顔を見た。

「逃げる必要が? ここはどこよりも安全だし、あんたがいるって分かれば、修理代を請求しにマスターがすぐに駆けつける」

「マスターってだれ」

間髪入れずに女はそう尋ねたね。だからオレも負けじとこう答えた。

「この前あんたが椅子を投げつけたヤツですよ」

 マスターね、と言って女は笑って俯いた。そんなに可笑しいことを話したつもりはなかったんだけど、まあ彼女には可笑しいことだったんだろ。いや、まあ普通に考えたら可笑しいんだけどね。だってあのマスターが椅子を投げつけられていたのだし。充分笑える。しかも女にだぜ。痴話喧嘩だったらもっと面白かったんだけど、そんな艶っぽい話になんかなりやしないことはオレも分かってた。追いかけっこした後、マスターは言ったんだ。あの女の顔は知らない顔だって。覚えがないって。あんな美しい女の顔を知らないって言うんだからそれはほんとに知らないんだろ、きっと。だからさ、必然的にさ、たぶん、この女が話をしたい相手はこのオレなんだろうなって推量できた。ほんときれいだったな、あのときの彼女。顔を上げた彼女の頬には、涙の跡があったんだ。ふたすじ。

「このままだとあんたはあの男に殺されるわよ」

 何を言われたのか、一瞬よく分からなかった。それから彼女の言葉を口の中で反芻し、咀嚼し、意味を取り出した。それは笑えない冗談だったよ。ほんとに。彼女の言ってることが本当なら、オレは今すぐあの男を殺さなきゃいけない。でも、たぶん、今やったところで勝ち目はない。オレは生き残れない。だから、まずは彼女の言葉がどういう意図のもとで発せられたものなのかを確認する必要があると思った。言っとくけど、オレはあんまりものを考えて喋ることができるほうじゃない。だから、ここで冷静に対処できたのは素晴らしいことだと、褒めてもらっても構わないよ。遠慮なんかしなくていい。さあどうぞ。

「ここでそんな不穏なこと言ってたら、こわーい看護師さんたちがすぐに駆けつける。場所変えない? オレの病室、どう?」

 あんたさあ、そう言って女は動きを止めた。オレを見ているようで見ていないようでその奥にあるものを見つめているようで次の言葉を探しているようでもあった。もしかしたらオレみたいに考えていたのかも。彼女もオレと同じで考えるのに時間がかかるタイプだったのかもね。まあだから、彼女の答えを待っている間に夕陽が沈んでしまったとしてもオレは気にしないふりをしたと思う。あんたが何かを考えているとは思ってないよ。ただ、あんたの顔に見惚れていただけだよ、ってね。だから、次に彼女の口から発せられた言葉がごくありふれた質問だったのには、少し、がっかりしたよ。

「あんた、いつからそんなふうに話すようになったの」

 ずっとこうだよ。そう言いたいのはやまやまだったけど、そう言ったところでだれにも納得してもらえないのは分かっていたし、だからオレは、いつでも頭の中の机の上に置いてある原稿を広げてそれを読み上げてみせた。

「うーん、百三十日ぐらい前からじゃないかな。その頃からオレはもうこうなってた。その前オレがどんなだったか、今はもう知らない」

「辻想起。遺伝情報鑑定所に所属。二十八歳」

「元、だ。今はもう所属してない」

 知らなかったか、とオレは彼女に言った。よく考えてみた上で辞めたのさ。オレには、その仕事はできそうにないって思ったしね。

「ええ、知らなかったわ。そう、辞めていたのね」

 彼女は素っ気ない感じでそう言った。そうなんです、辞めてたんです、って続けても構わなかったんだけど、それ以上言葉を継ぐ気が失せたんだ。理由なんかない。人の行動には大した理由なんかないんだよ。うそだと思ってるだろ。ほんとさ。怖いよな。

オレは勢いをつけて立ち上がって、すっと右手の人差し指で向こうのほうをさした。オレの病室があるほう。

「病室で話さないか」

 ほんと言うとさ、あそこで誰かと長々と話なんかしたくなかったんだ。ほら、あの百戦錬磨の彼女、彼女にふたりの姿を見られたらまずいことになるし、追求は避けきれないと思うと気が滅入ったし、だから、早く、病室に行きたかったんだ。そしたら、驚いたよなあ。彼女は突然笑い出してこう言ったんだ。

「病人じゃないくせに」

 彼女は優雅に立ち上がった。それから萌黄色のワンピースのしわをのばした。そのワンピースの裾には炎みたいな燃え上がるような緋色の模様が入ってた。きれいだったな、あれ。オレはちょっと考えて、それからこう言った。

「知ってるよ、よく、分かってる」

負けたよなあ、彼女には負けたよ。

あばずれのあの娘にも彼女を見せてやりたかった。こういう女が、男が勝手に籠絡されてしまう、ほんとにいい女なんだって。オレは緊張しながら病室まで女をエスコートしたよ。小間使いに見えてなけりゃいいなって思いながら。

 

 

   五

 

 思えば世界を救いたいなんて荒唐無稽なことを叫ぶやつっていうのは、世界の何を救う気でいるんだろうな。ヒーローってのはさ、この泥まみれの世界のシステムに生かされてる人間がいるってことを認識してんのかな。ヒーローがこの世界の泥を掬うならそれでいいさ。そのシステムのバグをなくすのもいいさ。でもさ、そうしたら、その泥水すすって生きてた人間は、どうなるんだろうな。行き倒れ。野垂れ死に。まあどっちにしろかっこよくない死に方をするんだろうぜ。なんでもないさ。なんとなく、そう思っただけ。死ぬなら、かっこよく死にたいなってそう思っただけ。子どもっぽいだろ。まあ生まれてからまだ、何日だっけ、三百そこらかな、それぐらいしか経ってないんだから、勘弁してくれ。

 まあ、なんだ、そんなことが思い浮かぶぐらいに、女を案内して自分の病室に着いたとき、オレは落ち込んでいたわけだ。色の無い世界で生きている人間にとっちゃ、強烈な色彩ってのはこころを慰めはしないんだな。そう、きみみたいな人間が病院に来るなら全然構わない。文句なし。別に生きるのを楽しんでるわけでもなく、死ぬことを過度に恐れているわけでもなく、これから死ぬかもしれないその病人に大した思い入れもない。それぐらいの人間がちょうどいいんだよ。自分と同程度だって思えるからさ。でも、あの女は違った。自分は生きてきた。艱難辛苦乗り越え生きぬきましたって顔してやがんだ。やんなるよな。こっちはまだその途中でもがいてるっていうのにさ。知らねぇよ、てめえの生き方なんか。あまりにも腹が立ってきたから、オレはベッドに寝るでもなく、タオルケット引っ張って、体に巻いて、窓辺に立ったんだ。女は言ったよ。

「そんなに何を恐れているの?」

 オレは答えなかった。答える義理なんかなかったし。窓の外を見た。庭には、モクレンが花を咲かせていた。三月にも咲いていたくせに、七月にも咲くんだな、この花。花は散っていたはずだった。三月の終わりごろのことだ。目が覚めてから初めて外に出たんだ。嬉しかった。単純に。そのときだよ。ばらばらって上から紅が落ちてきたんだ。いっせいに。花弁が、散り敷かれて、樹には、何も、何も残っていなかった。うそじゃない、そう見えたんだ。マスターが車椅子を押して、病室にオレを戻してくれた。戻ってから樹を見たら、驚いたよ。まだひとつだけ花が残っていたんだ。たぶん、その花だと思う。あの窓から見えた一輪だけ咲いていた花は。

「花を散らすことかな」

 女はドアのとこに立っていた。オレは手をタオルケットの中から出して、スツールをさした。女はそれを自分で引いて、そこに座った。大事なのは、彼女が椅子の座面の半分しか使わなかったってことだ。そこに座って背筋をぴんしゃんと伸ばしてオレを見ていたんだ。情けなくなったよ。どうして自分があっち側じゃないんだろうって。だからオレは意地悪を言ったんだ。

「なあ、見舞いにはさ、普通、フルーツをいっぱいに詰め込んだ籠を持ってこないか」

「食べきれなくて腐らせるだけよ。それに、あんた、病人じゃないでしょ」

 まあそれはその通りなんだけどさ、その通りだなと思うことを改めて他人に指摘されると腹が立つわけで、というかそん時たぶんただ単に腹が減ってただけなんじゃないかと思うんだけど、そんなこと言ったら身も蓋もなくなっちまうからそれは置いておいて、オレは体に巻きつけていたタオルケットをはらい落した。ワンピースの裾を、胸のあったところまでたくしあげて、それを脱いで、ベッドの上に放り投げた。

 何も言わなかったよ、彼女は。特に、何も。あんまりにも反応が無いから、こっちが拍子抜けしちまった。オレは自分の行為を恥じた。卑屈になるってこういうことだと思った。でもそれ以外に何が出来たろう。オレに何が出来たろう。

なあ、腹が減るってのは一番よくないことだとオレは思ってる。もうすぐ飢え死にするかもしれないってことだから。あ、どういうことか分かってないだろ。お腹がすくってのは恐ろしいことだ。人間が人間じゃなくなるんだから。人間が動物に成り下がる? なに訳分かんないこと言ってるんだ。人間は動く物だろ。動物だろ。動物だよ。オレが言いたいのは、人間じゃなくなる、ってことなんだ。オレは、そんなふうになってしまったオレを彼女に見せたくなかった。だから、とにかく、腹が減ってるって示したかったんだろな、オレは。もちろん詭弁さ。女は目も逸らさずにこう言ったよ。

「もう二度とそんなことしないで。見たくない。あんたのそんな姿」

 その姿が何をさしているかオレにはよく分かってた。フランケンシュタインみたいな体のことなんか言っちゃいなかった。だから、オレはすごすごとワンピースをベッドまで取りにいった。さぞかし情けない光景だったろうな。彼女のほうを伺いながら窓辺に戻って、ワンピースを着て、タオルケットで自分の体を包んだ。元通り。オレの自尊心以外は全部。自分の顔も隠したいところだったけど、そこまでの贅沢はできなかった。それしちゃうと、彼女が何をしてきても対処できなかっただろうから。悔しいことに、オレは、この情けないオレを彼女の目に、さらけだすことしかできなかったよ。

「腹が減ったんだ」

「健康でいいじゃない」

 オレは女を見た。

「いい目。あんたはそういう目ができる人間だった」

 女は右手を伸ばして、その拳をひろげて顔の前にかざした。指の間から女の目が見えた。

「あんたがどう考えているのか、分からないけど。本当にこわいのは、お腹が空かなくなることよ」

 女が言っている意味はそのときのオレには分からなかった。でも今のオレには分かる。そのときのオレは腹なんか減ってなかったんだ。たぶんな。よく分かる。だいたいそうなんだ。何でも。後で分かるんだ。そのときの自分の状態なんて。でも、そのときのオレには分からなかった。当然だ。だから、女に言ってやった。

「いっぺん死んでみろ」

 女は笑った。笑い声は低かった。忍び笑いっていうのは、ああいう笑い方のことを言うのかな。でも女の笑い声でオレは気分が良くなった。幾分ね。でも、その後の女の言葉でその気分は台無しにされた。

「もう死んでるの、私は。今は、二回目を生きてるの」

 何言ってやがんのか理解できないやつと話すのは嫌いでね。でも、残念ながら、オレのまわりの人間は大概そのタイプなんだな。まわりくどい言い方ばっかり。もっとさ、分かりやすく言ってくれよって思う。ああ、マスターは違う。簡潔すぎて訳が分からない。一つの熟語に十くらいの意味が入ってるつもりで言葉を使ってんじゃねぇかな。あれはあれで困りものだけど、この女はこの女で困りものだ。そこらへんでオレはやっと気がついた。まだ、女の名前を知らないことに。別に話しかけたいわけじゃないけど、困るだろ、識別記号がないとさ。だから訊いてみた。

「あのさ、二回目さん。よかったら、あんたの名前を教えてくれよ」

「ツジソウキ」

 空が晴れててああきれいだ幸せだって思って気分よく過ごせる日ってのは、幸いにも誰にも遭わずにすんだ日のことだ。誰にも遭わなけりゃ、災厄はそもそもふりかからないんだ。他人の行動見て一々さ、腹立てずにすむだろ。コイツ気色悪いなとか思ってる自分に自己嫌悪しなくてすむだろ。惑わされなくてすむんだよな、人に会わなけりゃ。種明かしだってされることないんだ。ただ一日、天気が良くて、風が気持ちいいな、って過ごせるんだ。たとえそれが、つくられたまがいものだったとしても、置きっぱなしにされたスノーボールの中にただ居ただけだったとしても、知らなければ平和に暮らせるんだ。きっと。誰だって。

 だから、人に会うのはオレは嫌いだ。自分以外の人間がいることに気づいてしまうことに、なんだか耐えられないんだよ。どうしようもなくさ。オレは女に丁重にお断りした。

「からかわないでほしいんだ。オレは、真剣に、尋ねてるんだから。もし、さっきまでのオレの行動があんたの気分をひどく害しているんだったら、謝る。悪かった。ごめんなさい。だから、教えてくれないか、あんたの、名前」

「ツジソウキ。これが私の名前よ」

 オレはためらったね。でもそれはほんの一瞬だった。

「似合わないよ、あんたには」

 そのときの彼女の表情をどう名づけたものかな。勿忘草。枯れかけたそれみたいだったね。分からないかな。うん。でも、そうとしか名づけようが無い感じだったんだ。オレは、もう一度窓の外を見た。あの花はもう無かった。地面を見ようとしたけど、その前に女が言葉を発したよ。

「アミエアミ」

 オレは首をかしげたよね。彼女はもう一度その言葉を繰り返した。そして、言った。

「それが私の二回目の名前」

 嫌んなったよね。

「その名前も似合わない」正直にそう言った。

「そう? 私は案外気に入っているわ」

「一回目の名前は?」

「この部屋から出るときに教えてあげる。今はとりあえず、アミエって呼んで」

「アミエさん」

「なに」

「アミエさん、あんた、オレを助けに来てくれたの?」

 オレは、窓辺から離れた。ベッドのそばでしゃがんで、タオルケットを頭までひっかむった。あごをベッドの上に置いた。ベッドをはさんで対面に座る彼女を見つめた。彼女の口がひらいた。オレはベッドの下に潜りこんだ。

「逆よ。殺せって言われて来たの。教えてあげる。私の一回目の名前は、カノウトモ」

 ごめんね、そう言う彼女の声が聞こえた気がした。でも聞こえなかった。どうしてかって? どんっていう音と衝撃がオレを襲ったからさ。窓が壊れて、ガラスが砕け散った。そして、オレの部屋はぐしゃぐしゃになったよ。血と肉片と脳漿と砕けたガラス。オレはベッドの下から這い出した。彼女に近づいた。彼女の顔にさわった。まだあたたかかったよ。

 アミ。フランス語で、トモダチ。

 オレは、かろうじて残っていた彼女の頬にそっとキスをした。トモ、そう呼びかけたら、彼女の体が傾いで血の海の中に倒れた。血がかかった。びっくりしたよ。ほんとに。

「怪我はありませんか」

 そう言われるまで森さんがそばに立っていたことにすら気づかなかったんだ。これじゃマスターに怒られるわけだよ、まったく。

「オレには無いです。でも、彼女は」

 担架が運ばれてきて、手際よく彼女をのせた。脳みそはかき集めなくていいのかな、とぼんやり思ったけど、別に誰もそんなこと考えてないみたいだった。オレは指で彼女の脳みそ、を構成していたものを触ってみた。一回しか食べたことないけど、ゆでられて縮んだ古い白子みたいだったよ。そのとき、オレのほっぺたが誰かのつめたい両手で包まれて、顔を上に向けさせられた。森さんの顔が近くにあった。

「彼女の名前は?」

「ツジソウキ」

「冗談を言ってる暇があったら、泣いてみたら?」

 森さんはそう言った。その通りだなと思ったし、さすが森さん面白いなあと思ったけど、涙は出なかった。その代わり、胃の中のもの全てをその場で吐き出した。森さんが背中をさすってくれた。なぜかその背中をさする手があたたかい気がして、それからこんなところで吐いてる自分が恥ずかしくって情けなくって頬がひきつれて口角が上がった。森さんは何も言わなかったけど、オレは、ワンピースのすそで口をぬぐってからこう言った。

「お腹が空いた」

 それはそうね、朝からあなたは何も食べていなかったもの、と森さんは答えた。道理で、とオレは思った。

 

 

   六

 

 そんなこんなで、オレはあっという間にもとに戻ってしまったんだな。もとに、っていいうのは、つまりまあベッドがお友達の状態のことだよ。何も食べられないのだから仕方ないんだけどさ。あ、でも、何も食べなくても生きてられるんだぜ、人間って。すごいよな。点滴さえしてれば生きてられるんだから。だけど、あの飢餓感はどうしようもない。点滴をされていても、腹は減るんだ。口に何か入れたいし、胃にあたたかい飲み物を流し込みたい。でも無理だ。固形物を入れれば、上から出るか、下から出るかのどちらかさ。どっちから出ても大して変わりゃしない感じの黄色いべしゃべしゃなやつが。不思議な感覚だった。自分の体がなぜ食べ物を拒否してるのかよく分からないんだ。たぶん分かればすぐに解決したんだろう。でも、すぐには分からなかった。起きてる間じゅう、どうして自分は物を食べられないんだろうっていう考えがぐるぐる頭の中を駆け巡って何周もしていた。まるで周回遅れのマラソンランナーみたいだった。終わらないんだ。たったひとつのことが。

「食べられないんだってな」

 マスターがりんごを一個持ってやってきたよ。これがさあ、また不味そうなんだ。七月だぜ。普通のりんごなんか手に入るわけがないんだ。あの甘い匂いがまったくしなかった。

「不味そうだな」

「体重は減っても口は減らんもんだな」

 マスターの憎まれ口はあいさつとして、こいつ、いつオレの体重を知ったんだろ、と疑問を持った。気持ち悪いな、って。何もかも把握されてるんだろうな、こいつには、と思うと、なんだか目を開けていられない気分になった。目も口も閉じるようにできているのに、どうして、耳だけは閉じれないんだろうな。

「眠いのか」

「今何時だ」

「朝の十時だ」

 言われてみれば、目を閉じていても光がさしてるのが分かった。それぐらいの時間なのだろう。ただ、病室の中は空調がきいていて、すこし寒い。オレは毛布を上に引き寄せた。

「寒いのか」

「出てってくれ」

 人って、ほんとに助けが必要な人間が助けを求めているときには、そいつを助けようとしないよな。そして、助けを得られなくて、倒れた後に、そうなるんじゃないかと思っていた、っていう顔をして、大丈夫か、って訊くんだ。何かを与えるんじゃない。尋ねるんだ。傍目から見て分かるほどに衰弱した人間に許可を得ないといけないほど、自分の時間を誰かに分け与えるのは惜しいのかい。よっぽど時間に貧しいのかな。おかしいのはどっちなんだろ。

「人が死ぬのを見たのは初めてか」

 どうして分かりきったことを訊いてくんのかな、マスターは。やになるよ、ほんとに。人が死ぬのをきみは見たことがあるか。オレはたぶんきみよりもたくさんその体験をしている。たぶん、だからこそ、この契約を結べたのだと思うし、それは、マスターだって分かっているはずなんだ。なのに、やつはそ知らぬふりで尋ねてくるんだ。やんなるよ、まったく。

だからオレはこう答えた。

「初めてだ。知ってるだろ」

 そうだったな、とマスターは言った。何がそうだったな、だ、こいつ。誰が嫌いってこいつのことをオレより嫌ってるやつがいたら話をしてみたいね。いや、逆だな。やっぱり会いたくない。人と会うのは面倒だ。これ以上、自分みたいな人間を見たくなんかない。

「帰ってくれよ、頼むからさ。そしたら、オレもものを食べることができるようになるかもしれない。頼むよ」

 久しぶりに長い言葉を発した気がしたね。それぐらい、何だろう、疲れていたんだな。こころにエネルギーが充填されてない感じ。そうなると何をするのも億劫になるんだな。話すってのは特にそうだ。相手が訊いてくることが何なのか、それは自分にとってどういう意味を持つのか、答えは何か、それは答えるべきなのか、そうでないのか、そういうことを考えなくちゃいけない。疲れるね、なにしろ。だから、きみときみの両親に会うのだって、オレはずっと拒否していただろ。

「お前、毎回、こんなふうに倒れてたら一生かかっても終わらないぞ。なにせ」

「あと二百六十九人だろ。分かってるよ。あんたよりよく分かってるよ。実際にやるのはオレなんだから」

「それができるかどうか判定するのはオレだ。お前にその力がないと分かれば、その時点で、切られるぞ、お前」

 オレは毛布をマスターに投げつけた。ベッドの上に座って、あいつを睨みつけたんだ。マスターはともだちなんかじゃない。ただの監視者だ。どこにだってあるだろ。監視カメラ。携帯用のカメラ。ネットにさらされる写真。あれと役割は同じ。待ってるんだ。ぱっくりと大きな口を開けて、人が失敗するのを。オレはマスターからりんごを奪いとって、ワンピースの裾でりんごをふいて、それにかぶりついた。まあ、後で吐いちゃうんだけど。あと、りんごを食べるとだいたい下しちまう。上から下から大変だったよ、オレも。

 マスターはオレがりんごを食べ終わるのを待ってから、オレの手からりんごをとって、毛布をオレにかけたんだ。優しく。

「いま食べることができたからって、この後も食べ続けることができなければ、判定は変わらない」

 マスターは、りんごの芯をゴミ箱に投げ入れた。からんって音がした。いるよな、こういうやつ。目の前で起こってることを見ようともしないで、自分でなんでも決めちまう。なんでも。わかってるさ。この後、このりんごがぐしゅぐしゅになって自分の体から吐き出されることぐらい。わかってるんだよ。

「お前が睨みつけたところで、お前がそういう状態になった過去は消せない。結局のところ、この後お前がどう結果を出すかにかかってるんだ。だれも、お前を助けてなんてやれない」

 大嫌いだ。偽善ふりかざして講釈ふるやつも、助けようともしないで助けてやれないなんて言うやつも。大嫌いなんだ。オレの顔を見れば、そのときのオレがどういうことを思っているか分かっただろうに、伝わらないんだ。知ろうとしないやつがいる。自分の都合にあったことだけ利用できればいいと思うやつが。だから、たぶん、人間は未だに、叫び声を上げ続けるんだろうよ。ディストレスコール。どこを彷徨って誰に助けてもらおうとしているのか、それとも、誰も助けてなんてくれないって分かってるから、挙げるのかな。

声を。

 頭がマスターの胸に押し付けられて、背中と肩はやつの両腕でがっちりロックされた。

そのせいで、オレの叫び声は声にならずに、マスターの胸の中に消えていったけど、果たして、その声をやつが消化できたかどうかは怪しいと思う。オレは叫び声をあげられないと分かったから、あいつの服を、肩を噛んだ。痛かったろうな。本気で噛んだんだから。普段食べてる牛肉を噛み千切るみたいにさ。マスターは感じてるだろう痛みをまったく滲ませないで、オレに話しかけてきた。いや、もう、マスターは痛みを感じないようになっているのかもしれないけど。

「うろ覚えだが、暴れて叫んで怯えてどうしようもない動物を懐柔するとき、こうするらしい」

 オレは動物と同じかよと思ったら腹が立ってきた。ああでも、そう言ったら動物に失礼だな。今更そう思うよ。

「でも、お前は動物じゃない。人だ」

 噛む力がぬけた。歯は立ててるんだ。だけど、これ以上噛む気がしなくなった。

「人なら自分を自分で飼い馴らせ。堕ちるのは簡単だ。お前を陥れてるのは、お前自身だ。だけどオレは知ってる。自分を、自分の心の奔流を自分のものにする方法を」

 オレは肩から歯を離した。白いシャツに赤い血が滲んでいた。錆くさい。鉄の味。ほんとにそういう味が、においがするんだぜ。毎月、毎月。オレの顔が笑ったが、オレのこころは笑ってなんかいない。意に反した顔をするときが顔にはあるよな。そして、意に反した声を発するときが人間にはある。オレは尋ねていた。

「どうやって」

「簡単だ。名前をつけろ。それだけだ」

 どんな名前をつけたか、教えたくても教えられない。これは、オレだけのものだから。この感情はオレだけのものだ。他人の借り物の言葉で名づければそれは畢竟他人のものだ。だけど、自分で名づければ自分のものになる。だから、きみにも教えることはできない。それを説明すれば、たぶん、他人の言葉を使うことになってやっと飼い馴らした自分のこころが自分のものじゃなくなってしまうから。そう、オレはやっと飼い馴らしたんだ、その感情を。

どれくらいの時間、その状態だったか、時計を見ていなかったから、分からない。だけど、だいぶ長いことそうしていた気もするし、そうでなかったかもしれない。

「もう大丈夫だ。離してくれ」

 マスターの手はオレを解放した。オレはベッドに座って、ぼうっとその言葉を心の中で繰り返していた。自分が名づけた自分の心の名を。

「次のやつが控えてる。お前が回復したら、次はそいつだ。第一にこの後お前が回復するかどうか。第二に、次のやつをやった後、お前がどうなるか、判定はそれ次第だ」

 あと二百六十九人の死。それを見終わるまで、オレの生は保障されている。そう思っていたのにな。自分のせいで、自分を終わらせる? くだらない。まったくもってくだらないちりあくたの集まりだよ、この世界は。なあ、そう思わないか。

「彼女がオレを殺そうとした理由はなんだ」

「分からん」

「じゃあ、調べてくれ」

 マスターは眉間に皺を寄せたね。皺を寄せるとマスターはひどく老けた顔になる。それがオレにはたまらなく可笑しい。

「これからも一々全部知るつもりか」

 今回だけだ、と答えれば、次からは教えてもらえないだろう。答えは大事だ。

「初めての人間だからな」

調べてみるって、気の無い返答をもらったよ。だから、ちょっと控えめに言ってみた。

「なあオレはあんたを殺す予定なんだぜ」

 脅すつもりなんか毛頭ないんだ。ただ、ちょっと知っておいてもらいたかっただけだ。

「そうだな。まあ仕方ない。リストの最後であることを祈るしかないな」

 驚いた。

「途中の場合があり得るのか?」

 だとすればオレにとっては至極面倒だ。それに、それでいいのだろうか、マスターは。

「そういう契約条件の変更は有り得る。だがまあ、なるべくなら、長く生きたい」

「なぜ?」

 オレは尋ねた。普通は長く生きたいと思うのが当然だろうな。地位もあって、金もあって、住む場所も食うものにも困らない。なら長く生きようと思うかもしれない。だけど、オレにはマスターがたったそればかしのことで、長くこの世界に留まりたいと思っているとは思えなかったんだ。なんでかっていうと、マスターは、大切なものを失ってしまっていたから。それがなければ、人は生きていけないんじゃないか、って思うものをさ。でも、マスターはそれを望んでいる。今も。自分の余命とひきかえに。随分ばかげているんだ、マスターも、そしてオレも。オレを笑い飛ばしてから、マスターは立ち上がった。そして、オレを見下ろしてこう言った。

「二百七十人の死を引き換えにしてでも、生きたいと願ったやつの生き方を、ぜひとも拝見してみたいからさ」

 じゃあな、と言い残してマスターはその場を立ち去った。

オレは左手を握ってはひらいて、握ってはひらいてみた。窓の外を見た。音も無く雨が柔らかに風に舞った。オレは立ち上がって、窓辺に立った。曇天の下を雨でできた透明な巨人が歩いていた。その場にしゃがみこんだオレは、お腹がすいたのだと感じた。泣くなんて優しいこと、オレにはできそうもなかった。

 

 

   七

 

 そこから、体が元に戻るまで一か月かかった。回復させるってのは難しいもんだよ。そもそもが弱ってる人間には特にね。こうやって座ってるだけでも最初は苦痛だったもんさ。でも、だんだん、歩くこともできるようになったし、走ることもできるようになった。ああ、廊下は走るなってよく怒られるから、廊下を走るのはやめたけど。あの頃に比べればだいぶましになったと思うんだ。何もかも。で、体はだんだん回復していったけど、頭はまだまだだった。あまり人の話を一瞬で理解できないんだな。文字を追うのも苦痛さ。そう言ったら、なんか薬が出た。卵巣を取り除いた影響もあるのかもしれない、って言われた。そう、オレ、卵巣が無いんだよな。だから、処方されてる薬、ちゃんと飲んでたんだけどな。まあ関係あるかないかはいいや。とにかく新しく処方された薬をしばらく飲んでたら、なんか集中できるようになった。不思議な話だ。たぶん、その薬は、この病院を退院した後も継続しなきゃいけないんだろう。嫌な話さ。でも仕方がない。それで健康で過ごせるんなら。やあ、そもそも、どういう状態が自分にとっての健康という状態なのかはもう分からないけれど、もうこれでいいやって諦めがつき始めたときさ、マスターが訪ねてきたのは。

 マスターはいつもそばにいるわけじゃない。まあ、そばにいるようなものだけどね。見えなくても、聞こえなくても、そこにいるんだ。何かを通してオレを見てる。それには変わりないんだから。まあ、オレとは関係ないと思っている人間に見られたところでどうってことないっていやそうなんだけどさ、突然現れると驚くものだよ。

「あんたにも発信機みたいなのをつけておきたい」

「そういうのがついてないか日に何度もチェックする。つけても金の無駄にしかならん」

 マスターは椅子を引いたよ。それからお決まりのあいさつをした。

元気か。

元気なら、ここにいない。

じゃあ元気だな。

いつも思うんだけど、この会話、意味あるのかな。まあ、人との会合は簡潔に済ますに限るよな。

「用件は?」

「二つある。お前が調べろって言ったことの調査結果。それと、次の人間」

 マスターが謹厳実直を絵に描いて壁に塗り込んだようなヤツだったってことをこの時まですっかり忘れていたのを謝りたくなったよ。一瞬理解できなかったもんな。何を調べてきたのかをさ。オレは最初の件から詳しく話してくれって頼んだ。

「アミエアミを脅迫していたのは、赤い手の男だ」

「赤い手の男。随分抽象的だな」

「そう、アミエアミの手帳に書き残されていた。その翌日以降の記載はない。そしてその後、彼女は店に来た。彼女は、ファルマを告発しようとしていたらしい。何を告発しようとしていたのか、分からん。時期が来れば、その告発はできるはずだった。ただ、その時期が来る前までにお前を殺すよう脅迫されていた。殺さなければ自分が死ぬ。死んでは告発ができない」

 この病院はファルマのおかげでこんな立派な施設を作れたんだそうだ。オレはこの病院が好きじゃないけど、まあ、ある一か所だけは気に入ってるよ。

「あんな武器を実装したドローンまで仕込んでおいて、オレを殺さなかったなんて馬鹿げてる。オレを殺せばよかったんだ」

「お前を殺すことに意味を見いだせなかったんじゃないのか」

「彼女自身が死ぬことのほうが意味があると思えたのか」

「あるいは告発することに意味を見いだせなくなったか」

「何を告発したかったんだ」

「知らん。ただ彼女は保護プログラムの対象者だった」

あることを条件に犯罪を不問・減刑にし、警察の保護下、もとい監視の下、別人になる。それが保護プログラムだと、彼女が店に来た後、マスターに教わった。もうちょっと早くこのことを知っていたら、オレは今ここにいないで済んだのかもしれない。

「マスター、あんたは彼女のことを知ってたのか」

「知らない顔だった」

「ほんとに?」

「ああ」

「保護プログラムの対象者は整形をする場合もあるのか」

「さあ、してる奴はしてるだろうし、してない奴はしてないだろうな」

「そうか。カノウトモって名前に聞き覚えは?」

 それまで淀みなく答えていたマスターが黙った。

「知ってるのか」オレは畳みかけた。

「さあ、どうかな」マスターはちょっとうつむいて腕時計を右手で触った。

「はん。そうかよ」

 必要最低限の情報しか与えない。それが人に情報を与えるときの一番安全なルールだ。知らなければ、知られることはない。知っていれば、知られる。それだけのことだ。今、きみに話をしているように、誰かにとって必要最低限のことしか、オレはきみに話せない。

 分かるだろ。

「義理堅く調べてくれたことに感謝するよ、マスター」

 マスターは顔を上げてオレを見た。その顔からはもう何の感情も汲み取れなかった。

「礼を言われるほどのことじゃない。二番目だ」

オレは、次のヤツの顔の映像を見た。

色素の薄い柔らかそうな髪。眠たげな二重まぶた。まっすぐな鼻梁。申し訳程度に上がっている口角。白い肌。きれいな顔じゃないか、そう思うよ。なあ、そう思ってるだろ、きみも。

 

 

   八

 

 次は僕の話をしてもいいかな、と彼女に訊いた。いいとも、次はきみの番だ、と彼女は答えた。

って言っても別に話すことなんてないんだけどね。何か、いい共通の話題があるといいんだけどな。今日は天気がいいですね、そうですね、なんて、このガラスから入ってくる陽光を見たら一目瞭然で分かることだし、最近何してるのって訊けば、きみは人殺しの一言で終わらせるだろ。これから何するの、と訊けば、僕を殺すときみは言い出しかねないし。やあ笑いごとじゃないよ、僕にとっては。僕を殺す。不思議だ。死んだら、親は悲しんでくれるかな。僕の死と向き合えるかな。向き合おうとするかな。兄の事件ともうまく向き合えていないのに。それとも、無視するのかな。カッコウのヒナが蹴落として割れた卵のように、僕をそもそもいなかったものとして記憶から消してしまうだろうか。

そういえば、最近新しい社会問題が話題になっているんだ。知ってるかな。成人した僕らヒナドリと、親が暮らしたがらないという問題。実はね、僕、ヒナドリであるだけでなくて、Oの落とし子なんだ。代理母が別にいるのは当たり前として、僕はOの産生細胞を増強する治療を受けたんだ。乱暴だよね。知ってた? 昔はそんな治療をしてたのさ。今じゃ、Oの受容体を増やす治療のほうが、一般的だけどね。ところで、さっきの話なんだけど、ヒナドリが親元に帰ってくるって話、これって問題なのかな。成人してるから扶養義務はないと思うんだけど。でも、あんな家賃の高いところで住宅手当も出ないような都会に住め、って言われると困るのも確かなんだよね。お金なんかないし。

きみが知っているかどうか知らないけど、僕らはね、必ずしもカッコウのヒナドリのように親元を巣立つわけじゃないんだ。そのまま親元に残ることだって往々にしてあるんだ。でもそれは人間ならどの家庭でも有り得ることだ。特に東京やその近郊に家がある人間で関東の会社に勤務する場合、住宅手当が出ないなら実家に住み続けるほうが断然安上がりだよ。ヒナドリでない僕の兄もそうだったよ。初めはね。兄は恋人ができてすぐ一人暮らしを始めたんだ。いや二人暮らしかな。どっちでもいいけど。

突然、そう突然、親の側に扶養の義務もなくなってから、僕らヒナドリは、たまにしか帰省することの無かった家に寄生を始めることになる。僕らがヒナドリと呼ばれたのは、家族にとっては不要な一人を政府の政策によって無理矢理家族にするよう迫られたからだ。一人一子以上政策が施行される前から兄や姉にあたる者がいる家に、僕らがカッコウのヒナのように、わり込んだからだ。好きでそんなことしたわけじゃもちろんない。生まれるなら、兄のように生まれたかった。だけどそうはならなかった。

僕らの存在は家計を逼迫させ、家族像を壊した、とよく言われている。よく言うなあ、って後から思ったよ。僕らの面倒はほとんど政府の就学援助頼みのくせにさ。自分が悪いのは他人のせい。別にいいと思うんだ、それでも。それで何かが変わるなら。僕? 僕は、もちろん、政府が運営するヒナドリ用の寄宿学校に入ってたよ。中学三年生までそうだった。でも兄が一人暮らしを始めることが決まってから、ほんとの家に住み始めたんだ。そこから普通の高校に通い出したんだ。

最初から別の養父母のもとで育てられるしあわせであるらしいヒナドリたちもいるけど、僕はそうではなかった。でも、親が僕を愛してないと思ったことはなかったし、兄に無下にされているとかそういうこともなかった。

寄宿学校から帰省すれば、きちんと母親が、特別な料理、僕にとってそれは豚の角煮とポテトサラダとマグロの刺身、を用意してくれていたよ。豚の角煮と茹でたチンゲン菜をいっしょに食べるのが僕は好きだった。おいしいねって言いながら、いくらでも食べなさいって言われながら僕は食べた。食べすぎてお腹が痛くなってトイレでうんうんうなっていることも多かった。そんなに食べなくてもいいのに、って言われながら、僕は僕がいなくなったら、捨ててしまわないといけないぐらいの量をつくる母親が悪いって思ってた。第一それらの食べ物がごみ袋に入れられて袋の口をしばられてごみ置き場に放置されるのを想像すると、悲しいんだ。なんとかして食べなきゃと思ってやっぱり食べ過ぎちゃって、トイレに籠って母さんに笑われ、父さんにトイレのドアを叩かれ、兄に呆れられるっていう、そんなことを繰り返すごく普通の家庭だったよ、僕の家は。だから、そうだね、僕には分からないんだ。どうして兄がきみを刺してきみに薬液をぶっかけて逃げたのか、なんてことはね。

「分からないのに、きみのご両親はオレに謝ろうとしているの」

 僕は分からないけれど、ぼくの両親は分かっているのかもしれない、と僕は答えた。

分かっているつもりになっているのかも、とさらに付け加えた。彼女の気分を害するといけないと思ったから。

 そりゃ申し訳ないと思うよ。きみを傷つけたんだから。そうだよ。今まできみは僕の両親と会うのを拒絶してたよね、っていうか、なんだろ、あの森さんって看護師にいつも断られていたらしいけど、折角会えたんだし言うよ。ごめんなさい。兄があんなことをして本当にごめんなさい。

「あんなことってどんなこと」

彼女は僕に尋ねた。

僕は思わず彼女の薄い胸を見てしまった。まったいらなその胸を。その上にある顔を艶然と微笑ませて彼女は言った。あんなことって、どんなことだと思う。答えようがない。僕は自分の左胸を右手で叩いた。

「きみの、こころを、きずつけ、た」

 今度は彼女は満足気に微笑んだ。そう見えただけかもしれないけど。僕はため息をついた。特に意味はない。ほっとしたわけでも、疲れたわけでもない。ただ、どうして僕が彼女の相手をしているのか、それが納得できないだけだ。あんなこと。あんなことをした張本人はここにはいない。来れない。物理的に不可能だ。なぜなら彼は医療刑務所に収容されているからだ。彼は体をうまく動かせない。おそらくもう二度と。

「きみは、小学校はどこ」そう彼女は訊いてきた。

 プライヴァシーに立ち入る質問として、僕らヒナドリ世代に嫌悪されている質問がこれだ。小学校を訊いてきたということは確信犯だ。ヒナドリ世代は、どこの小学校に在籍していたかによって、どういう生い立ちを背負っているのかが知られてしまう。まあ僕は気にしない。だから、よく怒られるのだけど。

「清歌小学校。普通だよ」

「普通だね。オレも同じ」

「きみも?」

 僕は彼女のことを憶えていない。彼女はどのクラスに所属していたのだろう。

「ぼく、あの殺人未遂事件があったとき、清歌幼稚園の年長組だったんだ。きみは」

いや、申し訳ないが、と彼女は続けた。

「記憶がないんだ。なくなっちまったんだ」

「記憶が」

「普通から異常になっちゃったんだ」

 彼女は笑った。よく笑う人間がいる。辛いときも、苦しいときも、悲しいときも、よく笑う人間がいる。僕は怖い。道化師の化粧が落ちて本当の顔が見えるのが怖い。その顔は、本当は笑ってないかもしれないのに、ドーランの下に隠れた荒れた肌が見えるのが、怖い。記憶はなくした、彼女はそう言った。僕はいたたまれなくなる。両親を呼びたくなる。彼女に会わせたい。そしてできれば、一緒に謝罪をして、断罪されたい。一緒に。

「事件のせいで、そう、なった、の」

「事件を境にそうなっただけだ。きみは? きみは、お兄さんがいなくなって、さみしくないのかい?」

 さみしいという感情はどうすれば消えるのか。

一時期、とてもよく考えたことがある。

高校の入学式のとき、僕はとてもわくわくした。兄が一人暮らしを始めることになったから、両親にも余裕ができて、僕は実家に帰ることになって、実家から学校に通うことになった。僕は初めてヒナドリでない人たちと一緒に学校生活を過ごすことになったんだ。わくわくしたよね、そりゃ。そこにいたのは僕のことを知らない人ばかりだったんだ。楽しいなって隣のやつに話しかけると、そいつは言った。お前らって人に興味ないんだろ。僕はびっくりして何も言えなくなった。教室が静まりかえった。そいつは別のやつに話しかけ始めた。そして喧噪が戻った。お前ら、という言葉が妙に胸にひっかかった。そうやって僕らをひとくくりにしてしまえるのは、Oの落とし子を実際にその目で見たことがないからだ。みんなが、なんだか違う星の人に見えた。そして、彼らは僕のような地球外生命体との邂逅を楽しめるほど大人ではなかった。僕は彼らの仲間になれなかった。僕のわくわくは一気にしぼんでしまった。エスカレーター式にこの高校に上がってきたみんなは、どうやらそのなれきった狭い世界をそのままにしておきたい反面、その狭い世界に飽き飽きしているようだった。すぐに、僕も飽き飽きした。彼らの狭い世界に。でもそれは、彼ら自身が広げようとしなかったせいで広がらなかった世界なのに、彼らは、それを自分のせいではなく、環境や他人のせいにしていた。変だよね。僕は孤独だった。監獄に閉じ込められた、雨も降る雪も降る花も降る、広い世界を懐かしむ一匹のアマガエルだった。

僕は彼女の質問に答えた。

「さみしいって思うのはひとりじゃないと思い込んでいる人間だ。本当に誰もいない人間は、ただ、ああひとりだ、って思うだけで、自分がさみしい人間だなんて思いもつかないよ。だから、僕は、さみしいとは思わない」

「お兄さんがそばにいないから? きみは、ひとりだ、と?」

 兄が傍にいないということがどうだというのだろう。そもそも、僕が高校に入学した時、兄は家を出て一人暮らしを始めていた。母親の料理が食べたいと言って、兄は月に一、二度帰ってくる。そのときに一緒に食卓を囲む。その程度の交流だった。通信端末でしょっちゅうやりとりをするかと言えば、そんなことはなかったし、第一、兄には恋人がいた。それは、たぶん弟よりも大切なものだったんじゃないかと僕は思う。

「兄は関係ない。ただひとりなんだ。でもさみしくはないね」

 僕は言った。そして、ちょっと訊いてみたくなった。

「きみはさみしいの」僕は彼女にそう尋ねた。

「さみしいね」

 愚問だった。何もかもを失ってしまった人に、しかも、自分の兄が彼女をそういう境遇に陥れたのに、僕はなんてことを訊いてしまったのだろう。今すぐ謝りたい。でもうまい謝罪の言葉が見つからない。酒が飲みたいと思った。僕は毎晩飲酒する。何も考えなくてすむようにするために。飲んでいる間は、何も考えなくてすむ。でも、次の日はだめだ。いろいろなことを考えてしまう。たとえば、死んでしまった彼女のこととか。そうだった。だから、僕は、今日、ここに来たくなかったのだった。彼女に会ってしまいそうで。いや、会うはずなんかないのだけど。

「きみはお酒を飲む?」

「医者に禁じられている」

 僕はこころから彼女に同情した。

「考えられない。酒を飲めない人生なんて」

「酒よりもいいものを医者にもらってるからね」

 彼女はキャンディーをポケットから取り出して、なめる真似をしてみせた。

「それは薬だろ。かわいそうに」

「うまく付き合えば酒はいらない。かわいそう、ではないよ、たぶん」

 彼女はポケットにキャンディーをしまった。僕はちょっと考えて、僕の発言が不謹慎なものだったことに遅ればせながら気が付いた。だから駄目なんだ、僕は。言葉に対して言葉を返しても何の意味もない。その場の空気に対して、返答をしないと、相手の気分を損なう。そう習ったのに。どうしても、目の前の言葉に対して感情が喚起されて、顔や体が反応してしまう。どうしても。うまく治せない。

「ごめんね」

「何が」

「僕はきみを傷つけることばかり言っている」

「傷ついてなんかいないよ、どこも」

 傷ついている人間は大抵なんでもないふりをする。そしてある日、死に場を探す猫のようにひっそりと僕の前から消えてゆく。なんでもないふりをして。その死骸を見つけた人のやるせない気持ちなんかちっとも考えないまま。だけど、僕は死骸を目撃するのは、まっぴらごめんだと思った。

「僕の両親に会ってくれないか。彼らは僕とは違う。きみを傷つけるようなことは言わない。ただ、謝罪したいだけなんだ」

 彼女は微笑んだ。

「あの」

「親御さんになんか会いたくないよ」

「どう、して」

「許してしまいそうになるだろ、彼らを」

「許す」

 驚いた。そんなこと、考えたこともなかった。許されることがありうるなんて。

「でも、きっと彼らを許す自分は許せない」

彼女の顔は微笑んだままだ。でも言ってることは決して楽しいことではない。だから、彼女がほんとのところどう思っているのか、僕はとても判断に困る。言動と表情が一致しない場合、それは一番困る。そして、そういう場合、たいてい相手は怒っていることが多い。何に? 何かに。それが分かるなら、僕らは言葉を必要としないだろう。だから、僕は言う。

「怒らないで」

 だいたいの場合において、その蓋然性を保証するものは今までの僕の人生経験のみだけど、だけど、だいたいこう言うと、相手は逆に怒りだす。猛烈に。この言葉で初めて怒り始めたのだと言わんばかりに。

「怒っていないよ。情けなくて笑い出したいくらいだ」

 だから、怒らせたはずなのに、そんなふうに言われてしまうと僕は戸惑ってしまう。僕は拘泥してしまうほうだ。彼女の気持ちが気になって仕方がない。どうして、笑い出したい気分なのか。でも、それを尋ねる勇気は生憎僕には無くて、だから、その答えをとりあえず、棚にあげて、そして、もう一度、彼女の言葉について考えてみた。表情からじゃ、手がかりが得られない。彼女の顔はただずっと微笑んでいる。

「僕の両親はきみに対してなにもしていない。兄とは違って」

「混乱させてるみたいだね。オレはね、親って存在が苦手なんだ。自己憐憫にむせいでる人間も得意じゃない。だから、きみの両親に会いたくない。きみの両親が悪いわけじゃない。お互いに不快にしかならないのに、会う必要なんかないだろ」

自己憐憫

「自分をかわいそうに思うってことさ」

 自分をかわいそうだと思うのは普通のことだと、先生からきいたことがある。なんて先生だったか名前は忘れた。かわいそうだと客観的に判断できる状況にあれば、そのかわいそうな状況を脱出できる方法が見つかるかもしれない、そう先生は言った。

どうしてそう言われるはめになったかというと、先生のような客観的な立場から見て僕がかわいそうな状況にあるように見えたからだ。当時、高校生だった僕にはともだちと呼べる人がいなかった。もちろん、恋人も。でも、僕はひとりでいろんな世界を探検していたのだ。自転車に乗ってどこまでもどこまでも道を走り続けたり、図書館でいつまでもいつまでも読書をしたり、ネットの世界に入ってなんでもかんでも検索してみた。それらは楽しかった。楽しみは自分ひとりで充足できると初めて気がついた。他人がいなくても楽しめる。それは嬉しい発見だった。でも先生にはそう見えてはいないようだった。きみにはこころをゆるせるともだちがいるかい。だれかひとりでもいい。そういうともだちが、きみにはいるかい? いないと答えたら、先生は言った。きみはかわいそうだ、と。そうか。僕はかわいそうか。

僕は思った。先生からそう見えているということは、親からしてみると、自分の子どもにともだちがいないというのは耐えがたい屈辱になるのではないか、と。僕は考えた。考えて、先生に、親には言わないでください、と口止めした。そして、大学ではともだちをつくろうと思った。

進学した大学では、ともだちをつくった。

同じ講義を受講するともだち。そのともだちには講義内容を記録したノートを貸してあげた。同じミュージシャンを好きなともだち。そのともだちからはミュージシャンのライブのチケットを買ってあげた。同じアルバイトをするともだち。バイトのシフトの都合が悪くなったとそのともだちが言ってきたら代わりに出てあげた。同じサークルのともだち。そのともだちはサークルでいざこざが起こるとトイレに水を流すみたいに僕に愚痴をこぼしに来た。かわるがわる。サークルのともだちみんな。僕は熱心にきいてあげた。いつもごめんね、どのともだちもそう言った。僕はちっとも辛いなんて思っていなかったから、謝られて驚いてしまった。だってともだちだもの。不思議だった。ともだちであり続けるために必要なことだと分かっていたから僕は喜んでそれらをしていたのに。どうしてみんな謝るのだろう。でもその疑問は呈さなかった。それを問い返さないことが礼儀だと思っていた。そんなふうに過ごすようになると、大学生の僕はとても忙しくなった。家には寝に帰るだけになっていた。でも僕はとても満足していた。これで、ともだちいないの、と訊かれても、いますって答えられる。両親があそこの家の子、いつもひとりでいるわねって後ろ指さされることもない。完璧。そう思っていたら、夏なのに、インフルエンザになって一週間、家で寝込むことになった。すぐ気がついてよかったわ、と母は嬉しそうに言った。母が車を出して、僕を病院に連れていってくれたのだ。母は僕に尋ねた。もうすぐテストでしょう? 一週間も大学休んで大丈夫? それにバイトも。大丈夫! 僕は咳きこみながら、胸をはってこう言った。ともだちがいるから! そう、と母は微笑んだ。僕も笑った。でも、母は頬に片手をあてて少しだけ残念そうにこう言った。あなたのインフルエンザが治るまで、あの子たちに一週間も会えないなんて、残念ね。

あの子たち、って、だれ。

僕がそう問い返す間もなく、母は部屋を出て行き、僕は眠りに落ちた。

ともだちから絶えず連絡がきた。お前、今日、大学来なかっただろ。テスト範囲と問題発表されたぜ。講義ノート、貸してくんない。ごめん、今、インフルエンザになっちゃって。はあ何やってんの、お前。いいわ、誰かほかのヤツ、オレにノート貸してくんない。ごめん、僕にも、最後の講義、どんなだったか、教えて。ねえ、教えて。ねえ、レポート提出前でさー、今週キツいんだよね、バイト代わってぇー。ごめん、僕、インフルエンザになっちゃったから、あの、日曜と土曜と火曜、出れなくなっちゃって、バイト、代わって出てくれる人を探してるんだ。あの、ごめん、それで。えー、それ、絶対、あたしが代わりに出ないといけないじゃん。下っ端、あんたとあたししかいないのに。えー、無理―。ほんと無理。どーしよー。ごめんね。あの、ほんとごめん。それで、あの。えー、あたしも仮病使って休もうかなー。も? いや、僕はほんとにインフルエンザで休。ねえ、ちょっときいてよ! またあいつら、やらかしたのよ。ほんといつもこう。どうして私があいつらの代わりに先輩方に怒られなきゃいけないわけ。テスト前で私だって時間ないのに。ちょっと、聞いてる? うん。きいてるよ。それで、どうなったの。だからぁ、あいつらの代わりにアイツら以外で先輩方に謝罪しに行くことになったの。で、合宿の手配とか全部やり直し。今からでもおさえられるとこ、どっか知らない? ごめん、分かんないや。調べたいんだけど、今、インフルエンザで寝こんじゃってて。はあ? じゃあ、あんた、一緒に謝りにいけないわけ? もうなんなの、みんなして。ごめんね。ほんとに、ごめんね、あの、でも、話、きくだけなら、きけるから。はあ、そんなこと、犬でもできるよ!

 僕は、実験してみようと思った。ともだちから連絡があっても、まったく、それに応えないことにしようと思った。もちろん、こちらからも連絡はしない。ともだちなら、きっと、僕がインフルエンザで体調が悪くて辛くてそれで連絡がつかないし、連絡もないのだと思って、心配してくれるかもしれない。もしかしたら、死んじゃったかも、って思って、くれる、かもしれない。ともだちなら。

 一週間後、僕は大学に行った。ともだちからの連絡は最初に休んだ日とその次の日しか来なかった。

 テストはまだ始まってない水曜日。講義があるから、それに出た。僕は話しかけられることはなかった。ともだちは、別のともだちと楽しげに喋っていた。講義が終わってから僕は勇気を振り絞って話しかけた。インフルエンザで休んでいたから、先週の講義ノート写させてほしいんだ。二人は顔を見合わせた。ああ、大変だったな。講義ノートなら、学校の裏道をまっすぐ行ってT字路を右に曲がったところに売ってるぜ。彼らは席を立った。ありがとう、呉田くん。そう言った僕の声が、彼に届いたかどうか僕には分からない。

僕は家に帰ることにした。帰ると、玄関に見慣れない女物の靴があった。それは、兄の靴と寄り添うように、つがいのように、きちんとそろえられていた。礼儀正しい人は好きだ。決まりきったことしか彼らはしないから。僕は僕の靴を見た。なんだか汚れていた。泥が靴にはねていた。その靴を、その二つの靴の横に並べるのが僕は嫌で、外に出た。そのときの外は、今日の空のようにきれいな青空だった。僕は、いま履いている自分の靴が汚れていないか気になった。よかった。汚れていない。出るときに、何度も確かめたはずだった。だから、大丈夫。

 大丈夫。

 僕は、彼女の目にはどううつってるのだろう。親とは違って、彼女に謝りにいこうともしなかった人間を。こんな昼間から、病院でぼおっと座っている人間を。大学は休学にしていた。ともだちからはもうずっと何の連絡もない。いや、連絡はあった。彼女を傷つけた犯人の弟だとばれてから。何度も、何度も。呉田からも連絡があった。お前の兄貴、最悪だなって。相変わらず、真面目で率直で面白いなと思った。そのとき全員のアドレスと電話番号を消した。今ではもう迷惑メールと友人からのメールは区別がつかない。どちらも迷惑であることだけは確かだけど。僕は兄ではない。僕では兄の代わりになれない。少し可笑しくなった。

「思い出し笑い?」

 彼女はそう尋ねてきた。違うよと僕は答えてから、素直に彼女に尋ねてみた。

「きみには僕はどう見えるの」

「ふしあわせ」

 不思議な言葉だ。未だ幸せに非ず。安んぞ幸せを知らんや。僕は、ふしあわせだろうか。

 彼女は続けた。

「質問をしてもいいかな」

 僕は頷いてみせた。

「どうしてきみはきみのお兄さんの恋人を殺したんだい?」

 僕は誰のことも殺していない。でも、そういうふうに受け取られても仕方ないと思った。

僕は、ある雛鳥の話をしてもいいかな、と彼女に訊いた。彼女はぜひと答えた。

「家に帰ってきたらカッコウの雛鳥がいたんだ。その雛鳥は可愛くて小さくてでもいつも笑顔でその雛鳥がいるだけで親や兄を明るくした。あるとき、母が言った。この子がいるだけで笑顔になれるわね。雛鳥は嬉しそうに笑った。そのつがいの兄も嬉しそうに笑った。父も嬉しそうに笑った。僕も笑った。あまりにも馬鹿馬鹿しくなったから」

「それが理由?」

 手に入らないものが何かを知ってしまった。自分では叶えてあげられないものがあると知ってしまった。自分は必要のないものだと知ってしまった。そこにあるべき当然のものではなく、自分こそカッコウのヒナドリに蹴落とされる卵だったと知ってしまった。その耐えがたさたるや。十九年間、今は二十歳だけど、少なくとも、十八年間は家族でいようと、家族として恥じない自分でいようと努力していた自分の人生とはいったいなんだったのだろう。一人一子以上政策を支持している政治家なら、僕のこの努力を認めてくれるだろう、もし僕が死ねば、世間の人は、あわれんでくれるのかもしれない。でも僕が欲しいのはそれじゃない。分かってる。努力すればいいんだ。努力の仕方を変えて、方向を変えて、相手のことを慮って、もっともっともっともっともっともっともっともっともっと。もっと。もっと。もっと?

「馬鹿馬鹿しくなったんだ」

 僕はもう一度言った。

「雛鳥が邪魔だった。ただそれだけだよ」

 僕は顔を両手で覆った。太陽のひかりのあたたかさが手をとおって、僕の目をつらぬく。

 息ができなくなるような冷たさを首筋に感じた。僕はそっと手のひらを顔からはずした。

「こんなことしなくったって、解決方法はいくらでもあったはずだ」

 僕の首に突きつけられているもの。彼女の手。それに握られている、何か堅い金属製のもの、果物ナイフ。

 彼女は笑って、果物ナイフを閉じて、その右の掌の中に包み込み、右手をポケットの中にひっこめた。僕は首に手を当てて、血によって伝わる僕の体を動かす鼓動をきいた。その血と兄の恋人の血と兄の血は、半分だけ同じもの。兄は不幸にしてそれを知らなかった。兄と兄の恋人の血は、つながっていた。僕は、兄の恋人をただ追い出したくて、追い出す方法を探していた。僕は、同じ人から採取された精子卵子によって、大量のきょうだいが出来ているということを知った。同時に、精子提供、もしくは卵子提供をすれば、代理母の費用が割引されるということを知った。だから、僕は兄と兄の恋人の遺伝情報を、当時創設されたばかりだった遺伝情報鑑定所に鑑定してもらった。そう、横に座る彼女、辻想起がいたところなんだっけ。もしかしたら、彼女が鑑定したのかな。結果はクロ。僕は事実を兄の恋人に伝えた。兄が事件を起こして兄の住んでいたアパートに帰宅した日、兄の恋人は首をくくって死んでいた。それを見た兄は事件に使った薬液を頭からかぶった。だから、兄は、今も医療刑務所にいる。

「僕はあの女の人を死なせるつもりなんて全然なかった。事実を知ってもらって、親と兄が傷つかないうちに出ていってもらうつもりだったんだ。巣から。だけど、あの女の人は死を選んだ」

「でも選ばせたのはきみだ。伝えなくてもいいことを伝えて、選ばせたのはきみだ」

 正直、兄の恋人になんて言ったかなんてことはあまり覚えていない。他人に仇なす者は大概、覚えてません、そう言うと思う。たぶん、その言葉は真実だ。事実をありのままに、度が過ぎるほど詳細に覚えているのはいつだって被害者だ。だから、僕は兄の恋人に言った正確な言葉や口調は、覚えていない。兄の恋人の名前だって、覚えてない。

「そうかもしれない」僕はそう言った。

 なんだかいろんなことがどうでもよくなってきた。でももうだいぶ前からそうだったような気もする。

「ねえ、きみが僕を殺すのは、それが理由なの?」

「違う。きみを殺せと、命令されたからだ。そうしないと、オレも生きることができない」

 そういう理由でオレは三人の人間を殺してきた、と彼女は言った。三人も! 僕は笑い出したくなった。政策によって発生させられて、挙句、誰かにとってあなたが生きているのは都合が悪いからという理由で殺されるのか。笑えるよ。ほんとに。

「あれ。でも、おかしいな。きみはまだ一人しか殺してないんじゃなかったっけ」

 彼女はにっこり笑った。

「きみは人の話をよくきいていたね。その通り。アミエアミを殺せと命じた奴と、その前の二人を殺せと命じた人間はみんな違う人間なのさ」

「みんな?」

「オレはね、代理母だったんだよ」

代理母? 遺伝情報鑑定所にいたのに?」

「オレは二人いるんだ。代理母だったオレと遺伝情報鑑定所にいたオレ。でも今となってはどっちもオレじゃないけど」

「よく、分からないな」

「分からなくてもいい。分かるように、話してないから。ねえ。きみのお母さんは、自然に妊娠したことはなかったのかい?」

「さあ、どうだろう。でも、もしそうだとしても、堕胎したんじゃないかな。僕らが生まれた頃は別だけど、今は他人を介さない妊娠の場合、法律で堕胎するって決まってるよね。僕らみたいなOが欠けて生まれる人間を殖やさないように」

 彼女は僕から顔を背けた。その横顔はもう笑っていなかった。

「堕胎って言えば、殺すって言葉が入らない。だけど、オレは、殺したくはなかった」

 彼女の横顔に涙は流れてなかった。

 彼女は少し上を向いて、微笑んだ。彼女は僕に顔を向けた。彼女の両目が僕を見る。彼女の唇がゆっくりと動いた。

「どうして、オレたちは、O産生細胞を増強されたんだと思う?」

「どうしてって。治療のため、じゃないの」

「じゃあ、O産生細胞を増強する治療法は、何で使われなくなったんだと思う? 新しい治療法が見つかったから? それもあるだろう。だけど、もっと根本的な問題があるのさ。オレたちOの落とし子にはね」

「問題?」

「どうして、オレたちはO産生細胞を増強されたのか」

 何だと思う、当ててごらんよと彼女は言った。

僕は笑った。別に可笑しかったわけじゃない。ただ、そう、笑いたかったんだ。

「人口減少を食い止めるため」

「違う」

「製薬会社が儲けるため」

「違う」

「人類の未来のため」

「違う」

「愛し愛されるため」

「惜しいけど違う」

 僕は答えを聴きたくなくなった。適当なことを言い続けることはできるけど、僕が思いつく、適当な答え全てに彼女は違うと言うだろう。なぜなら、僕は本当の答えをけっして口にしようとは思わないからだ。

「もうおしまいか?」

「知りたいと思わない」

 彼女が笑う声がきこえた。ききたくない。このままここを立ち去りたい。

「きみは知らなきゃいけない。知っておかなきゃいけない」

「何のために?」

「これからのために」

「もうすぐ死ぬのにかい?」

 彼女は笑うのをやめた。死なないかもしれない、と小さくつぶやいた。僕は怖くなった。

「僕らは普通なんだ。普通の人間のはずなんだよ。愛情があふれる、しあわせな、人生が、送れる、普通の、人間の」

 はずなんだよ、と僕は最後まで言えなかった。頬を涙がつたった。

彼女は僕を見ずに、口をひらいた。

「人を殺すためだ」

 知ってたよ、と僕は言いたくなんかなかった。彼女は話を続けた。

「オレたちはOの落とし子だ。それオレたちが生まれたとき、オレたちにOが欠けていたからだ。でも産生細胞を増強されたオレたちには、Oが備わった。ふつうの人間と同じように。Oは、特別だ。Oが無ければ人間はこんなに栄えなかっただろう。人間はつくりあげた。人間の王国を。Oがあることで生まれる、思いやりに満ちた場所を。そう。他人を思いやって、自分を思いやって、意図的に、動物や植物、果ては同族まで殺す世界を。くさくて食えもしないような同族をなぜ殺す必要がある? 利害が一致しないから? 利害が一致しなければなぜ困る? 生きることができないから? 愛する家族、同胞が不利益を被るから? あるいは傷つくから? 憎いから? なぜ憎い? 自分の友達を、家族を殺したから? どうしてそれで憎いと思う? それは、愛しているからだ。友達を。家族を。そう思い込まされているんだ、Oによって。トリガーなんだよ、Oは。人を殺すための、自分以外の他人のために、自分以外の他人を殺すための、トリガーなんだ」

彼女は、笑って、僕を見た。

「きみはO産生細胞を増やされた人間だ。それで、普通の人間と同じになるように調整された。オレも同じ。普通になったんだよ。きみもオレも。Oの産生細胞を増やされて無理矢理、普通の人間と同じになったんだよ。しあわせになるために。人を愛せるようになるために。その愛する人を守るために、人を傷つけられるように。人を、殺せる、ように」

僕らはしあわせになるために生まれてきた。だけど。

僕らのどこがしあわせだというのだろう。

生まれたときの自分の体が普通の人と違うからといって、普通の人と同じになるように改造されて、だから普通にふるまえることを望まれ、しあわせに過ごすことを望まれた。だけど、そうなる努力は自分でしなきゃいけなくて、でも普通の人が感じるようなしあわせをつかもうとすればするほど、普通の人と同じようにしようとすればするほど、しあわせという感覚から遠のいていく。そんなことを言えば、僕らは普通ではないから、と言われる。普通にしあわせになるための治療をしたはずなのに。僕らが普通じゃないと言えるほど、あなたたちは正常なのか。

 ねえ、普通ってなに。

 答えなど出るはずもない。ふしあわせ。間違いない。僕らは、彼女の言うとおり、ふしあわせだろう。でもそんなことみんな分かっている。分かっていて知っていて、そのことにどう対処するかは、その人の自由だ。無視したって構わないんだ、そんなこと。気づいてないふりを一生続けたっていいんだ。事実、僕はそうしてきた。だけど、きみは、それを、しようと、しない。

「他人を無差別に殺させるなら無人機だけで十分だ」

「無差別じゃない。殺してほしいヤツだけを殺させる」

「そんな都合のいいことができるもんか」

「じゃあ、どうしてオレたちは、孤独な環境に置かれているんだ? Oは人を愛するためのものだろ? なのに、オレたちは、いつの間にか孤独になっている。愛する者は今はもういないか、オレたちの手の届かないところにいる。そこにつけこまれて、他人を、オレたちの同胞を騙して強請って犯して殺してしまった、オレたちの同胞は、Oの落とし子は、いったい、どれくらい、いると思う?」

 彼女の声を聞きたくないと思った。無視することはできただろう。だけど、僕の隣には彼女がいて、彼女の声が伝わってくる。彼女の顔が見える。彼女の体が見える。無力だ。自分の体の反応に抗うことはできない。

「それで、兄は、きみを殺そうとしたって、そう言いたいの」

「そうだよ。それが全てだ」

「そして、いま、きみは、僕を殺そうとしているの」

「そうだ」

「きみに愛されている人はしあわせだね」

 僕は思うのだ。猫に育てられている犬を見て、かわいいな、とか。泣き叫ぶ赤子が急に泣き止んで笑い始めると、僕も笑ってしまって、ああ、しあわせだな、とか。手をつないでしあわせそうに寄り添うふたりがいて、たとえそれが兄とその恋人だったとしても、いいなって、そう、思ったんだ。そう、思えたことだって、あったんだよ。

「しあわせな人間なんていない。どこにも」

「そうかな」

「喋るのに、疲れた。もう、これで、オレの話はおしまいだ」

 彼女はゆらりと立ち上がって僕を見下ろした。僕は口を開けた。伝えなければいけないと、そう思った。

「きみは間違っているよ。しあわせな人間はいるし、僕らはきみがいま言ったような理由で生まれてきたわけじゃない」

「御託はいい」

 彼女はポケットのジッパーを下ろした。

「御託なんかじゃない。証明してあげるよ、それを、今から」

 僕は立ち上がって、彼女の両腕を片手でつかんで、彼女のポケットに手をつっこんで、それを取り出した。

 ただの果物ナイフ。そして彼女を突き飛ばしてそれを両手でつかんで自分の首にあてた。

「きみに会えてしあわせだった。きみに会えてよかった。きみに会えて僕は、やっと生きてきた意味を見いだせた気がする。さようなら」

 ナイフを一気にひっぱった。

 ほら、きみは人殺しなんかじゃない。

 人を殺しそこなった、ただの、人間だ。

 

 

   九

 

 オレは叫んでいた。なんと叫んでいたかは分からない。とにかく、それで人が集まって、医者や看護師を呼んでくれた。オレは、彼の首の傷を押さえていた。そのオレを押しのけて医者や看護師たちが彼を運んでいった。ここは病院だけど、それでも、彼は助からないだろう。現場に残った医者の一人がオレに尋ねた。

「君は怪我をしていないのか」

 オレは血まみれになった髪をいじりながら、うなずいた。

「彼はいったい」

「彼は自分で自分の首を掻っ切ったんです」

「それは、分かっているが、どうして、そんな」

「彼の兄は、総木大介と言います。辻想起殺人未遂事件の犯人です。そして、自分は、辻想起です」

 医者はオレの顔をまじまじと見た。初めて見たつもりだろうか。だろうね。ほとんど医者は病棟に来ないで電子カルテとネットの問診で済ませてるもんな。対面したって、彼らが見ているのは、パソコンのほうだ。

「自分は、そんなに、恨んでいるつもりはありませんが、彼が、自分のその態度を、どう受け取ったかまでは、分かりません」

「とりあえず、着替えたほうがいい」

 触ろうとする医者の手をオレはよける。

「警察が来るまでは、現場は、荒らさないほうがいいでしょう。このままでいます」

 オレはさっきまでふたりで座っていた長椅子のその横の床に腰を下ろし、後ろの壁ガラスに倚りかかった。からだじゅうが、血でべとべとだった。だけど、それも、乾けば、こすり落とせて、ただの、ちりくずに変わるだろう。このワンピースはもうだめかもしれないが、漂白すれば、まだ、使えるかもしれない。時間との闘いだろう。落としづらい汚れ物は洗うのが早ければ早いほど落ちやすい。人間も、人間もそうだろうか。何が? 何が、そう、なのだろう。

 足音がした。早いな、と思って顔を上げると、そこにはマスターがいた。白いシャツに黒いパンツに走りやすそうなシューズ。

「通報を受けて参りました。S署の須賀家直仁と申します」

 医者とマスターは話をしていた。そして、マスターが腰を落として、オレの顔を見た。

 オレは口をあけた。

「知らなかった」

「何を」

「あんた、本当に警察官だったんだな」

 マスターは鼻から息を吐き出した。

「事情を訊きたい。立てるか」

「ああ」

 オレは立ち上がった。何かが音を立てた。音のしたほうに目を向けると、棒つきキャンディーが転がっていた。平べったいキャンディーは、まっ赤な血の海で青く光っていた。

「どうして、あっちをとらなかったんだろう」

「何のことだ」

 オレはキャンディーを拾い上げた。ひかりに翳してみる。赤紫色でとてもきれいだ。

 あと二百六十八人。

 トリックオアトリート?

 オレは、それを血の海に投げ捨てた。それは音を立てて、しぶきを上げ、血の海を飛び出した。白い床にそれはぽつんと転がっていった。オレは両腕を広げてこう言った。

「オレの背中には翼がある」

 血の海から飛び出し、大陸に辿りついた一艘の舟。青いその舟に乗れる人数は限られているだろう。だから。

「飛んでいくさ、どこまでも」

 冗談は顔だけにしろ、とマスターは毒づいて、オレの腕をとった。

 オレは笑って歩き出した。オレの笑顔がマスターが求める彼女のものではないと知っていながら。外は快晴だ。外に出られる。どこにでも行ける。でもどこへ?

 どこへ?

 オレは笑った。生きているんだと思った。こんなに嬉しいことはない。

 総木想。オレときみは違う。オレは辻想起とは違う。オレはきみたちが受けた治療を受けていない。オレは知っていたんだ。きみらが他人を殺せることも、それと同じように、きみらが自らを傷つけるのを、オレたちほどには、厭わないということを。痛みは、自傷を、自殺を、ほんの少し思い止まらせる。だけど、O産生細胞を増強されたきみらは、ほんの少し、オレたちより痛みに対する恐怖が少ない。だから、きみたちはオレたちより自傷しやすい。それだけだ。オレたちときみらの違いなんてたったそれだけだ。おかしいな。たったそればかしの違いで、きみらはみずから死んでゆく。まあ、オレにとっては、とっても都合がいいわけだけど。でも、それだけだ。都合がいい、だけ。

着替えてくるよ、オレはそうマスターに言って、廊下を進もうとしたけど、後ろ襟を掴まれた。マスターはその必要はないと言った。このまま警察に行く、と。でも、こんなに真っ赤に汚れていて気持ち悪いんだとオレは主張した。その格好で出歩かれたほうが迷惑だ、とマスターに言われた。きたないきたないきたないきもちわるい、オレはそうごねた。

トイレで手を洗うことを許された。マスターはトイレの中まで入ってきた。きもちわるいな、オレはそうマスターをなじった。マスターは何も言わなかった。なにも。まだオレが逃亡すると思ってるのだろうか。馬鹿じゃないか。そんなことするわけもない。手をすすぎながらそう言って笑ってやった。

「気づいてないのか」

 なににさ、オレは手をすすぎおえた。ぐわしと頭がマスターの両手に包まれた。離せよ、そう言ってマスターのほうを向こうとしたが、それは叶わなかった。オレの頭は鏡の前に固定された。こんにちは。オレ。おや一段とひどい顔をしているね。髪はとっても痛んでるし、目には隈ができてる。ほっぺたの片側の血は、ところどころ茶色に変色しているが、まだ、赤い、まま。

「お前はずっと泣いている」

 さっきから、ずっと。そうだね。いや、そうかな。泣いているのかな、オレは。そんな優しいことができる人間だろうか。残酷だ。お前は優しくなんかない。涙は、自分を癒すために流すものだ。すごいな。泣けるんだな、お前は、自分のために。そうさ、すごいだろ。馬鹿みたいだ。泣いてるなんて。でも、しあわせだ。あいつよりずっと、ずっと、しあわせだ。分かってるなら、これ以上、手を煩わせるな。分かってるよ、マスター。分かってる。分かってるんだ。でもなんだかからだに力が入らないんだ。年かな。ねむたいんだ。すごく。いやお腹がすいたのかな。ねえマスター。

「キャンディーが食べたい」

 すごく。後でたっぷりやるから、我慢しろ。きっとだぜ、約束、な。

 赤いニット帽をかぶった女の子がいた。オレはその子に話しかけた。バトンちゃん、キャンディーいらない?

 女の子はポシェットから何やら取り出して、オレの顔につきつけた。

「あげるわ」

 オレはそれを手にとった。真っ赤なキャンディー。どうして、オレに、くれるの。

「前に、あなたのキャンディー、捨てちゃったから。その、お返し。借りは作らないの」

 女の子は下を向いたままそう言ってから、走り去った。なんてかっこいい女の子だろうね。お前たちも、生まれてこれたら、あんなふうな女の子になれたのかな。なって、ほしかったな。視界がゆがむ。泣いているんだよ、とオレは言った。

 

 

   十

 

 ひとつ疑問に思ってることがある。

「あの赤い手の男は結局だれだったんだい?」

 彼女は、そうだな、と一息ついてから背中を丸めて床を見た。床にはもちろん何もない。

「大人に裏切られ続けてきた子どもが、大人をそう簡単に信用するだろうか」

 僕には分からない。大人だけでなくいろんなものを信用できなくなってしまった僕には。

「分からないね」

 自分だったら、と彼女は言った。

「同じ子どもに説得させる」

「たとえばきみみたいな」

 彼女は顔を上げて、上を仰いだ。そこには天はなく、床と同じようなまったらいなものが広がっているはずだ。でも僕は彼女の横顔を見ていた。

「たぶん違う。自分には無理だったろう。だけど」

「きみを監視しているあのガードマンなら、それができた?」

 彼女は僕のほうを見て笑った。笑った。ただそれだけで、僕は彼女の何もかもを理解できた気になってしまった。それはあまりに皮肉で、だからこそ、あまりに美しくはないか?

「自分はできないけどお前ならできる。頼む。そう言ったんじゃないかな」

 本当の脅迫っていうのは、脅迫されてる本人はそうだと気づかないものだと思うよ、と彼女は言った。とんだかませ犬だよ。僕も、その死んだ女も。付き合ってられるか。最後にはお互いに殺し合うと決まっている男女。その猶予期間のやさしさ。なまぬるさ。居心地の良さ。僕は知らない。僕はそんなもの知りたくない。

「きみはそれでもそばに居続けるのかい?」

 ちょっと不思議なものを見たようにしてから、彼女は顔をぐにゃりと歪ませた。

「決まってるさ。だってオレはやつを殺さなきゃいけないんだから」

 彼女はどうしてそんなことを尋ねるのか、僕に訊くのを迷っているようだった。迷う必要はないのだった。僕は言ってやった。

「知ってるよ、きみが、彼のことをだいきらい、だからだろ?」

もう充分だ。話を変えたいとそう思った。今度は、僕の話をしたい、そう思った。

 

 

生よ、生者の望みの喜びよ 第一部

第一部 Oの落とし子たちの話(二〇〇五年、二ホン)

 

   一

 

赤い粘液が水に溶けて筋状に広がり波紋になりやがてそれらが混じり合い朱色の半透明な液体になる。その液体は渦を巻いて轟轟と音を立てて泡を作り出しながら便器の奥そこに消えてゆく。一瞬前まではわたしの体の中にあったもの。血。そして、まっさらな透き通った透明な液体。それが便器の中に溜まる。これは水。

わたしはドアを閉めて個室から出た。廊下を歩くと、裸足に木の板がひんやりと優しく、わたしのなかのなにか途方もない熱さを冷まそうとする。だけどわたしには分かっていた。それが冷まされることは決してない、と。

 わたしは居間と廊下を隔てたドアの前に立った。ドアの取っ手に手をかける。取っ手を下げて、ドアを引く。むんと鼻につく、血のにおい。わたしは口と鼻を手で覆った。ドアと壁の隙間にそっと体を入れて居間に入った。

電話が鳴った。

わたしはびくりと体を震わせ、その場に硬直した。

電話はドアのすぐ横の黄色い棚の上にあった。わたしは電話の母機に表示された電話番号を確認した。0120で始まる番号だった。わたしは電話から目を離し、居間の中を見た。灰色のソファが見えた。でもそこからではソファの横にあるテーブルは見えなかった。

電話が鳴りやんだ。

わたしはそろそろとゆっくり歩き出した。ソファの前で立ち止まり、ソファの上にのった。その上で体育座りをした。

わたしは顔を右側に向けた。そこには長方形の焦げ茶色のテーブルと四脚の椅子があった。そのうちの一脚には母が座っていた。わたしは膝の上に左の頬をのせた。

右を見る。

わたしの目は、テーブルに左頬をつけた母の顔を見据える。

母の目はわたしのほうを向いている。それなのにその目はわたしを映そうとしない。

「お腹が痛いよ、お母さん」

 母は何も答えない。

当然だ。母の声帯からは血があふれていた。母の内側からあふれだしたこの液体はソファまで流れ着き、ソファの下側が血を吸って黒ずんでいた。この血と、便器の中にあった血は、同じ血だ。便器の中の血は吸いこまれて視界からきれいに消え去る。だけど、ここに広がる血はどこにも消えてゆかない。母の体内に戻ることは断じてなく、ただ流れ出るままに流れ続けるのだ。

「お母さん」

 再び母に話しかけてみた。

あろうことかわたしの声はとても苛立っていた。母と話したいことがあったのに母はそれに答えることなく口を閉じたのだから当然だ。

わたしは両手で自分を強く抱きしめた。

「お母さん」

 わたしの問いかけに母は応じない。母の目は動かない。口も顔も首も手も足も胴体も、母はもう動かない。わたしは膝にまぶたを押しつけた。お腹が痛い。涙が膝をつたって流れた。わたしは顔を上げて、母を見た。

「ねえ、痛み止めの薬はどこにあるの」

どうして母が生きている間に訊いておかなかったのだろうとわたしは煩悶した。

わたしは目をあけた。よく晴れた朝だ。わたしは父が運転する車の後部座席で体を仰向けにして寝そべっている。膝を曲げて両足の裏を窓ガラスにぺたりとはりつけた。わたしは父を見た。父は前を向いたまま、運転を続けていた。わたしは視線を窓に戻した。

行儀が悪い、と母がいればわたしを叱っただろうが、父は何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。ラジオは喋り続け、エンジンは低く唸り続けた。わたしは右足と左足の裏を行進するように交互に窓ガラスに押しつけていった。わたしが行進する方向に車が進むことはなかった。

わたしの足はきれいだ。なぜならこの足は母の血に触れることはなかったから。わたしは自分の両のてのひらを目の前でひらいてみた。わたしの手はきたない。なぜならこのふたつのてのひらは母の血に触れたから。触れるつもりなどなかったのに。それもこれもあの救急隊員のせいだ。

あの時、母をどう処理したらいいのか分からないのと、腹痛が我慢の限界を超えたため、救急車を呼ぶことにした。仕事中に父が電話に出ることはなかったので、これは賢明な判断だったとわたしは思っている。

わたしは、ソファから足をゆっくりと下ろした。母の血に触れないように、ゆっくりと血の海をぬって歩こうとした。だけど、あまりの腹痛のひどさに、わたしはよろめいた。わたしはその場にへたりこんだ。スカートに血がつかないように、お尻は下ろさなかった。両手を床につけて体を支えた。目を閉じ、ただじっと、床の冷たさに意識を集中した。そうすれば、腹痛がおさまるような気がしたのだ。もちろんそんなことはなかった。わたしは目をあけ、顔を上げた。あの黄色の棚の上に電話がある。わたしはあごを引き、両手を見た。両膝と両脛を床につけた。わたしはハイハイをするように、目標の方向に向かって、右、左、右、左、と手と足を動かした。黄色の棚にたどり着いた。わたしは顔をあげ、両手で棚をつかんだ。上体を起こし、棚を支えにして立ち上がった。受話器をとりあげて、119を押した。コール音が何度か鳴った。はい、という男の人の声が聞こえた。

「ひゃくじゅうきゅうばんです。かじですか、きゅうきゅうですか」男の人はそう言った。

「かじ、火事、ではありません」わたしはそう答えた。

「では、きゅうきゅうですね。住所はどこですか」

「とうきょうと、せたがやく、まごのまち、いっちょうめ、きゅうのいち、です」

「ふくしょうしますよ。東京都世田谷区馬子野町一丁目九の一、ですね。近くに何か目印になるような建物はありますか」

「公園、とのど公園から見える場所にあります」

「わかりました。どうなさいましたか」

「お腹が痛いです」

「あなたがですか?」

「はい。それと、お母さんが動きません」

「動かない。お母さんはどういうふうに動かないのですか」

「いすにすわって、テーブルに顔をつけたまま、動きません」

「お母さんがそうなる前に痛いとか何か言っていませんでしたか」

「分かりません。でも、くびをほうちょうで切ったから痛かったと思います」

 わたしとしては、簡潔明瞭に説明したつもりだったが、どうもそれがいけなかったらしい。なぜだろう。あとでネットで確認したが、簡潔にわかりやすく説明しましょう、と書いてあった。やはりわたしは間違っていない。間違って慌てたのは、電話を受けた人だ。何度も母の状態について説明を求めてきた。説明に多大な時間を費やした後に、なお止血をするように指示をされた。止血をするもなにも、もうこの母のからだからはあふれ出るだけ血があふれ出てしまっているように、わたしには思われた。もはやできることなど、何も無い。

止血は必要ですか、とわたしは訊いた。

怖くてできないって思うかもしれないけど、頑張るんだ、君の行動次第ではお母さんは助かるかもしれないんだから、と男の人は言った。

無理だろう。しかし、無理だと思いますと伝えても同じ励ましの言葉が返されそうなので、わかりましたと答えた。電話は切らなかった。受話器を母機からぶら下げた。受話器と母機をつなぐコードが伸びきった。でも受話器は床につかなかった。受話器は宙に浮いていた。棚のすぐ横にはドアがあった。わたしはそこから居間の外に出た。壁をつたって、玄関まで歩いた。玄関で、スリッパを床に下ろして履いた。わたしは一度しゃがんだ。そして、ハイハイをして、洗面所に行った。立ち上がり、箪笥からなるべく模様の入っていない白いタオルを選んで取り出した。タオルを首にかけ、わたしは再びしゃがみ、ハイハイをして居間に戻った。

わたしは立ち上がった。なるべく血の海を避けて歩いたが、母のそばは血の海が広がっていて、血を踏まざるを得なかった。わたしはスリッパで血の海の上に立った。ぬるっとした。テーブルまで血を踏んで歩いた。母の首はぱっくりとひらいていた。わたしは、タオルを母の首の傷口にあてた。血は凝固することなくまだ流れ続けていた。血液のあたたかさがじんわりとわたしの手に伝わり、やがてわたしの手を血で濡らした。でもわたしは電話で教えられたとおり、我慢してタオルをあて続けた。

 太陽に透かしてみても、てのひらを貫いているはずの血管は見えない。ただあのときからてのひらを見るたび、てのひらが赤くないことが確認できると安心するようになった。逆に赤く見えたときは、たとえそれがすぐにもとの真っ白な手に戻ったとしても、わたしは手を洗った。車のスピードが落ちる。サイレンの音が聞こえる。さかさまの窓からは、救急車は見えなかった。

 母の首にタオルを押し当ててもなお血は流れ続けていた。あの119の男の人には、なぜ分からなかったのだろう。体から血が出るということがどれほど体に負担がかかることか、どれほどつらいことか知らないのだろうか。あれだけの血が流れ出れば、その人体はもはやその負荷に耐え切れず人としての体を保ち続けるのは難しい。そのことをどうして推測できないのだろうか。こんな、こどもでもわかる論理をどうして大人は理解しようとしないだろう。

救急車のサイレンの音が聞こえたから、わたしは母の首からそっと手を離した。たっぷりと血を吸ったタオルは母の首に吸いついたまま離れなかった。わたしは両手を見た。

真っ赤な手。

わたしは手をこすり合わせた。血が落ちるかと思った。血は落ちるどころか固まっていった。わたしは手でスカートをぎゅっと握った。スカートから手を離して、手をひらいた。手はまだ赤かった。わたしはさっきつかんだ場所とは別の場所をつかんで手を何度もこすりつけた。それでも、手はきれいにならなかった。わたしは、母を見つめながら、ゆっくり後ろに後退した。血で汚れていないまっさらな床のところまで歩き、スリッパを脱いだ。そして、ドアと壁の隙間からそっと居間を出た。廊下を歩いた。玄関で靴を履いた。玄関のドアを開けて外に出た。救急車に向かってわたしは血がこびりついて染みついてしまった真っ赤な手をふった。わたしは嬉しかった。やっと手が洗えると思った。

「助かったかもしれません」

病院で、母を知らない医者は父に対してそう言った。

「もし娘さんがすぐに止血できていれば、奥様は、助かったかもしれません。娘さんにき

ちんと治療を施してますか。もしかしたら、治療の予後がよくないのかもしれません。学

校にも行かず、自宅での教育を続けたことがそれを助長したのかもしれません。いますぐ

娘さんの精密検査を」

「わたしはふつうです。おかあさんはちゃんとわたしを育ててくれました。いったい、先生はなにをおっしゃっているのですか」

医者はそこで初めて、父の横に立って医者をにらみつけているわたしに気がついたようだった。あのとき、あの医者がしなければならなかったのは、母を失った父のケアであって、わたしの検査ではない。ましてや過去から見たあったかもしれない未来を考えだして父に伝える必要などなかった。母は助からなかったのだ。その事実は変わらない。助かったものか、あれだけの血が流れ出ていたのに。あんなにぱっくり首が割れていたのに。見開かれた母の目はわたしを捉えようとはしなかったのに。

 サイレンの音はわたしたち父娘が乗る車を追い越して行った。車は加速した。その拍子に、わたしの頭と腕と上体が座席から滑り落ちそうになった。わたしは両腕で体を支えてこらえた。父の顔が見えない。わたしは助手席の後ろの後部座席にきちんと座りなおした。父の顔をミラー越しに見る。父の顔には何の表情も無かった。父はわたしを見ていなかった。ただ前だけを見ていた。車は加速を続ける。海が通り過ぎてゆく。白いガードレールたったひとつで隔てられた車と海。前から迫ってくるのは、いや、この車が向かっているのは、その白いガードレールのその向こう側。

「お父さんっ」

 その瞬間、ミラーにうつる父の目がわたしの顔をとらえた。車は減速した。その速さでカーブを曲がりきる。そうして車はそのまま走行し続けた。白いガードレールのむこう側の防風林が窓の外の視界いっぱいに広がる。その黒い林が途切れると視界は青く染まった。青い空に浮かぶ太陽のひかりが、海に吸い込まれ、そこかしこで乱反射していた。ひかりで海は白く見えた。眩しくてわたしは目をすがめた。車はゆっくりと減速してやがて路肩に停車した。父はハンドルに顔を埋めた。父の顔は見えなかった。

お父さん、車、降りるね、とわたしは父に告げて、車外に出た。海の匂いがした。白いガードレールは存外大きい。ガードレールに手をかけ、その隙間から、はるか崖下にある海をのぞきこんだ。海はきれいだった。わたしはガードレールから手を離した。ガードレールは白いままだった。わたしは両手をひらいた。赤く見える。わたしは手を握って、ジーンズに手をごしごしとこすりつけた。わたしの手は、きたない。あの塩水にこの手をぬらせば、わたしの手はきれいになるだろうか。

車のドアを開閉する音が聞こえた。

父がこちらに向かっているのだと思った。

振り返って父に微笑みかけるべきだろうか。

べき? 

反吐が出そうだ。自分の偽善っぷりに笑い出しそうだ。もう終わらせる頃合いなのかもしれない。思いやりがある人間に見せかけることも、わたしたちが家族であろうとすることも。

首が、父の、両手に、はさまれて、締め上げられた。わたしは、父の手を払いのけたくなるのを我慢して、ぎゅっとジーンズを握った。

だけど、首はそれ以上締め上げられることはなかった。後ろからどさっという音がした。わたしはゆっくりと大きく息を吸って吐いた。首に父の手はもうかけられていなかった。父の嗚咽が聞こえる。

「ちがう。おれは、愛していたんだ。カコのことも、お前のことも。本当の家族だと思って、思っていた。思っていたのに。それなのに、どうして」

 どうして、と父が叫ぶ声はまだ聞こえていた。後ろを振り返る。父は地面にこぶしを叩きつけていた。赤い血が父の手にも滲んでいた。海の水で手を洗いたくなる衝動を必死に抑え、わたしは父の肩に手で触れようとした。その時だ。

 父はふるえて、のけぞって、わたしの手をはらいのけた。

 わたしの手はきたない。血に汚れている。あなたよりも、もっと。だから、あなたのその反射は、正常な反応なんだ。

わたしは父に微笑みかけた。やさしく。

父は泣きだした。手で顔を覆ってまるで親をなくした赤子のように大きな声で泣いた。

 なんてことはない。父とわたしは同じだった。

わたしは父が泣きやむまでそこで微笑んで立っていた。

二〇〇五年五月の、よく晴れた日のことだった。

 

 

   三

 

「長雨の、けぶる白木蓮、はすの下、極楽浄土の池の中、土の中にこそなかりけれ」

「何がない?」

「ないんじゃない。あるんだよ」

「何が?」

「俺たち」

 ちびは、須賀家が見つめる白木蓮を黙って見上げた。半袖からのぞく、ちびの腕は白くて細かった。私はスカートの裾を握ってぱたぱたと扇いだ。蝉の声がしゃわしゃわとうるさい。この暑い中、六年C組第3チームは、木蓮の木の下で安那が戻ってくるのを待っていた。私はそっとため息をつく。

「嘉納。ため息をついたところで、おれたちがびりになるのに代わりはない」

 目ざとくて細かくてうるさい男は嫌われるよ、と須賀家に言うつもりはない。私はそんなに優しくなんかない。

「むしろそれを誇れって? 無理な相談ね」

「そもそも相談してないだろ」

「日本語に律儀な男だね、あんたは」

 直起の少し縦長の顔が斜めに傾いた。

「日本語に不自由な男なら、そこに」

 私は自分の後ろをふりむいた。

 安那だ。やっと来た。なんだか陽気に手なんか振っちゃって、まあ。あいつのそういうところがむかつくんだ。

「ごめん。待った?」

 安那は大きい目を細めて笑い皺を作って、そう言った。茶色の髪が太陽の光に透けて眩しい。

「そんな、デートに遅れてきた女みたいなセリフは、いらないの、よっ」

 安那を蹴ろうとしたらひょいと足をあげてよけられた。嫌なヤツ。

「謝ってるのにさぁ、ひどいよなぁ」

 安那は口をとがらせて、顎を引いて、上目遣いで私を見た。私は口をあけた。

「ひどいのはどっち? 私たちを待たせておいて」

「いやぁ、お待たせさせただけの収穫はあったと思うよ」

「そうか。よかったな」

須賀家はそう言って、安那の左手を右手でつかんでボクシングの勝者みたいに上げた。

「やめろよー、須賀家―」

 安那は須賀家を見下ろした。須賀家は見た目はごついけど、安那より背が低い。同様に、須賀家は私よりも背が低い。だけど須賀家は誰よりもよく鍛えている。

「よーし、すがやぁ、そのままおさえててよー」

私は右手をぐるんぐるん振り回した。

須賀家の左手が私の右手をつかみ、その動きを止めた。私は須賀家を見た。

「ちょっと、須賀家!」

「まあ待て、嘉納」

 そう言って、須賀家は、横の安那を見た。

「どういう収穫があったのか教えてくれ、安那」

 安那は胸をはって、右手でVサインを作った。

「祭りが決まった。山中先生といっしょに、だれか買い出しに外に出られるぞ!」

「ほんとにっ」

 私は叫んでしまった。

「ほんとほんと。な、待った甲斐あっただろ?」

 安那は目を細めてにっと笑った。須賀家に腕を掴まれたまま、私はぐるぐる腕を回した。「外に出られるのね!」

「まあまあ落ち着けよ」

そう言う安那も私といっしょになって掴まれた腕をぐるぐる回す。

「痛い」

 そう言って須賀家が腕を離して私たちを押したせいで、私たちの体は草むらに転がっていった。ぜんぜん痛くなかった。すがすがしい気持ちだった。外に出られる。それだけで、胸がいっぱいになった。同じように草むらに転がった安那に笑いかけようと横を向くと、安那の顔は笑っていなかった。寝っ転がったまま、空を見上げていた。

「安那?」

 虚を突かれた形になった安那は、顔を横に向けて私を見た。安那は、歯を見せて、にっと笑った。もういつもの安那だった。膝を曲げて足裏で地面を蹴りあげて安那は立ち上がって言った。

「外に出るのは、俺だよ」

 私も負けじと立ち上がった。

「私よっ」

 いいや俺だ、私よ、と私と安那は外に出る権利を互いに譲ろうとはしなかった。当たり前だ。だって外に出られるのだから。

「出たくない」

 声の主はちびだった。ぎゅっとスカートのすそをつかんで、しかめっ面をしていた。

 寄せられた眉根の上で切り揃えられた前髪が揺れた。

出たくない、ともう一度ちびはそう言って、たたたっと走り去った。須賀家が待てと言いながらそのあとをついて行った。私はとても気分を害した。なんでそんな楽しい空気を壊すようなことをちびは言うのだろう。それが気に食わなかった。とても。

「ちびが外に出るとは限らないのに」

「外に出たくない理由があるんだろ」

 須賀家が説明するさ、と安那は言って木蓮の幹に倚りかかり、大きく手を伸ばした。

 木蓮の花は、安那の手には届かなかった。私も手を伸ばしてみる。

「戻ろうか」

 安那がそう言った。

 うん、と私はうなずいた。木蓮の花は私の手にも届かなかった。

 私たちが校舎まで戻ると、玄関で須賀家とちびが待っていた。びっくりさせてごめんなさい、ちびはそう言って私たちに頭を下げた。ちびが謝ることができる人間だったことに驚いた。だから、一瞬遅れて、いいのよ、もう、と私は言った。それでもちびは頭を上げなかった。いいって、ほんとにと言って、ちびの背中に手を置くと、その背中が反りかえった。顔を上げたちびの目は大きく見開かれ、私を見つめた。ちびは、人から触れられることに慣れていないのだろう、と私は考えた。

「ちびのこと、嫌いになってないよ、ほら、いっしょに行こう」

 私はちびの小さな手をとった。ちびの手はすごく冷たかった。こういうのは、慣れだ。ちびの冷たい手もいつかはあたたかくなるだろう。

「行こう、ちび」

私たちは校舎の中に入った。

 私たちはOの落とし子だ。

 ふつうの子どもではない。

 私たちの健やかな成長は希望の成就だ。

 だけど、希望を裏切られたとき、大人がどういう行動をとるか、私は分かっていた。

だから、私たちは希望であり続けなければならないし、自分を大切にしたいのならば、彼らを裏切ってはいけない。でも、それを分かっていない子どももいる。ちびはその典型的なタイプだ。別に泣くなとは言わない。問題行動を起こすな、とも言わない。どちらもするのが子どもだからだ。だけど、私たちはOの落とし子である以上、それをわきまえて行動しなければならない。それをどう分かってもらうか、私はそれに悩んでいた。

「もんだぁーい」

 間の抜けた声で私の高尚な悩みを打ち切ったのは、安那だった。私は後ろを振り返って、なに、と尋ねる。

「青い血を持つ生き物はなぁんだ」

「知るもんですか。宇宙人じゃないの」

「ぶぶー。地球上にいますぅ」

「人間か?」

「ちがうよう。俺たちじゃあるまいし」

 俺たちじゃあるまいし、ね。

そうか、と須賀家が言った。

「生き物の血は赤いよ」

 ちびがそう言った。「わたし、見たもの」前を向いたまま彼女はそう言った。

「知ってるよ。俺たちの血が赤いことも、血液検査で俺たちは知ってる」

 安那は、穏やかな少し高い声でそう言った。ちびは黙った。安那は続けた。

カブトガニだよ」

 へえって言ったのは私、知らなかったと言ったのは須賀家、ちびの手はますますぎゅっとかたくなる。

「二ホンにもいる生きた化石だっけ?」

「そう。血が青いんだ」

「じゃあ、これからは、お前の血は青いんだって言われたとき、カブトガニと同じよって言えばいいのね」

「確かに。そのほうがいいかも」

「あら。珍しく同調するのね」

「今より大切にしてもらえるかもしれない」

「それはゾッとするわね」

「こわい話なんだよ」

こわいかもしれないが、カニなんだかクモなんだかエビなんだか分からないような生物の話などどうでもいい。祭りの話のほうが大事だ。

「外に出られるのは誰なのか、楽しみね」

 私は安那を見た。安那は横目で私を見た。安那の口元に笑みが浮かんでいた。

「少なくともお前じゃないよ、嘉納」

「痛い」

 ちびがそう言った。いつも富士山の尾根のようになっているちびの眉がもっと険しくなっていた。ごめん、と私は謝って、手をゆるめた。ちびの手は離れなかった。私は安那を睨みつけた。

「安那、それはどうしてなの」

「なんとなく。走るよ」

 学校の廊下は走ってはいけないと言う暇はなく、あっという間に、安那の姿は階段に消えた。

「安那は、なにか企んでるのかもしれないな」

 ぽつりと須賀家がそう言った。

「あいつはいつも秘密主義よ」私はそう答えた。

「そう?」

 疑問の声をあげたのはちびだった。ちびは目を丸くして私を見ていた。

「安那は分かりやすいと思う」

「どこが」

「言葉が」

 そんなことないと思うけど、と私は言いながら、ちびと一緒に階段を上る。須賀家は何も言わない。

 私たちは、集団行動を求められる。特にチームを組んだ子とは、本当のきょうだいだと思いなさいと言われる。そんなことは難しい。「本当」の定義を教えてよ、と思う。とは言え、私は、チームの誰かが悲しんでたら、そっと寄り添えるようなそんな存在になりたいと思っている。まあ須賀家や安那の悲しんでる姿を見たことなどないが。問題は、ちびだ。夜中に、ちびはよくベッドを抜け出して、窓の外を眺めている。真っ暗な中、星を眺めている。それが悪いことだとは言わない。ただ、そのときのちびに、私はそっと寄り添うことができない。ベッドの中でゆっくり鼻から空気を吸って吐いて、ちびが戻ってくるのを待っている。

 外への憧れがないのに、夜空を眺めるのはどうしてなのだろう。

 この学校で学んでいる者は、みんな、少なからず、外の世界に対するなんらかの思いを抱いている。それは憧れであったり憎しみであったりする。

 その外の世界からやってきた子ども。

 ちび。

 不思議な子。

外の世界はまだあなたにとっては大変なのよ。

そう言われて何度外に出るのを断られたことだろう。私が病気に罹患しやすいのもその原因かもしれないが、今度もまた、同じように断られるのだろうか。なんだか憂鬱な気分になってきた。気晴らしをしたいのに、その相手をしてくれそうな人間は、いまここにはいない。

 さみしいな、と思う気持ちを消しながら、一歩ずつ階段を上った。

 ちびの手を握りなおす。あったかくなってきた。そんな気がした。

 

「お祭りではなにをやりたいですか」

 教室で山中先生が私たち第3チームの面々に尋ねる。

「花火! ほんとはキャンプファイヤーがしたいけど、校庭では無理、ですよね?」

 少し困ったような顔で山中先生が頷く。

キャンプファイヤーは、難しいですね。でも、花火なら、きちんと水と、万一のときに備えて消火器を用意しておけば大丈夫でしょう」

「やった」

「バーベキューは?」

 安那が尋ねた。それも難しいです、と山中先生は答えた。

「でもみんなでいっしょにカレーを作って、外で食べて、テントをはって、外で寝ましょうか」

「面白そうっ」

「嘉納、料理できたっけ」

「できるよ。カレーなら作ったことあるよ」

「そうだ。思い出した。だめですよ、山中先生。嘉納は黒焦げカレーを作って危うく火事にしかけたんですから」

「包丁も使えないようなやつに言われたくない」

 山中先生は、あらあら、と言った。

「大丈夫ですよ。包丁の使い方も教えますよ。みんなでいっしょにやりましょう。それと、それぞれの作業をする際のリーダーを決めましょう。花火について。料理について。テントについて。あと、買い出しも」

 はいっと手を上げたのは私と安那だ。

「俺が買い出しに行きます」

「いえ、私が買い出しの責任者になります」

「そうねぇ。買い出しに行けるのは二人までなんだけど、ほかの二人はどう? 安那くんと嘉納さんに任せる?」

「ボクは構いません」

 須賀家が言った。ちびは、椅子の上で膝を両手で抱えてぎゅっとちぢこまって、かすかに前へ後ろへ揺れていた。

「ちび」

私からの問いかけに、ちびは応じなかった。肩に手を置いたその瞬間、ちびは、机と椅子を蹴飛ばして立ち上がった。その顔は顔面蒼白になっていた。

 先生は立ち上がり、ちびのもとへ行って、しっかりとちびを抱きしめた。ちびは抵抗するように、手足をじたばたさせたが、先生の腕はしっかりちびを包み、足はしっかり地面に立っていた。私は見てはいけないものを見ているような気がして、そこから目を逸らした。その、目を逸らした先に、安那がいた。安那は、食い入るようにふたりの姿をじっと見ていた。安那は安那自身を両腕で抱きしめていた。その手が腕にくいこんでいる。私は持っていたペンを落してしまった。

「大丈夫よ、大丈夫」

 先生がそう言う声が聞こえた。ちびがしゃくりあげて泣いていた。

「ペン落としたぞ」

 須賀家が私に手を差し出してきた。ありがとう、と私は言ってペンを受け取った。その手が私の肩に置かれた。ぽんぽんと二回叩かれた。大丈夫だ、と須賀家は言った。

「先生、俺たちここを出ていきますね。係り、決めときます」

 安那はそう言って立ち上がった。先生は安那のほうをちょっと見て、お願いします、と言った。安那は教室を出て行った。須賀家の手が私の腕にまわり、私の体を立たせた。須賀家に連れていかれるようにいっしょに教室を出た。

「どこ行くの」

「洗面場」

「なんで」

「お前の顔を洗うためだ」

 私は自分の頬をさわった。泣いていたのは、ちびだけじゃなかったらしい。

「どうしてこんな、涙なんか、出てくるの、かな」

「あれは、お前のせいじゃない。ちびの問題なんだ」

「なにか知ってるの」

「いつかちびから直接きいたほうがいい」

 私は知っていた。

 ちびと須賀家は違うことを。

 私と安那は、親を知らない。でも彼と彼女には親がいた。この学校に入る前のことを彼らは記憶している。担任の先生を実の親のように思えっていう教えも、チームの子をきょうだいのように思えって言葉の意味することも理解しているのだ。

 安那と私は違う。

 この学校に来る前の記憶はない。

 生まれてすぐこの学校に預けられた。

 親に捨てられたわけじゃない。そんなことを言い聞かせられた。知ってる。いつも何かの検査や実験に参加するときは、親の同意書を見るから。そこに書いてあるサイン。その下に私の名前。知ってる。学費を払ってくれてるのは親だって。でも、おこづかいをもらったことなんて一度もない。ましてや抱きしめてもらったことなんて。一度も、ない。

 私は、山中先生を本当の親のように思えない。だってほんとうのおやを知ってるから。

 あのサインが私のほんとうのおや。笑えてくるね。

 顔を洗う。冷たい水が気持ちいい。ハンカチを取り出して、自分の顔をぬぐう。

「買い出しには、お前と安那が行ってくればいい」

「須賀家は行きたくないの」

「今度でいい」

「今度はないかもしれないよ」

「なぜ」

「未来は不確定だから」

「なら尚更ここに残るさ」

「あんたはちび好きだよね」

「お前は安那に肩入れし過ぎだ」

 好きじゃないよ、と私は言った。どうだか、と須賀家は言った。私たちの会話はそれで終わった。須賀家は安那を探してくると言って、階段を下りていった。私は教室に戻った。ちびと山中先生はいなくなっていた。

 だけど、安那がいた。

 安那は泣いていた。

 さっきちびが蹴飛ばした机の上に腰かけて、うつむいて泣いていた。

 私はドアを開けたから、安那はだれかが教室に入ってきたことに気づいているはずだ。

だけど、彼は顔を上げなかった。

 私は思っていた。ずっと思っていた。寄り添えるように、なりたい。

 小さな教室に足を踏み入れて、一歩ずつ、ゆっくり安那に近づく。

 安那のそばにたどり着く。安那はまだ顔を上げない。

 そっと安那の背中に手をやる。

 安那が顔を上げた。

 嗤った。

 そして、また、泣き出した。

「どうしてかなぁ。どうしてお前なんだろ」

 安那の体は私の手からすっと離れていった。

安那は机から降りた。彼は床にしゃがみこんで声もあげずに泣き出した。背中を丸め、両手で顔を覆って、静かに彼は泣いていた。

 私はゆっくり彼から離れた。そして、教室を出ると走り出した。

どうして、なんて言わないで。

もうハンカチは濡れてしまっているのに。

だれなら私を慰めてくれるのか分からなくて、私は寮に戻って、寝室に入って、毛布を頭の上からひっかむった。今なら分かる。真夜中に星空を眺めるちびの気持ちが。隣り合っているように見えて、何億光年もずっと離れている星々。近くなんかない。どうしようもなく遠い。彼女も、彼も、私も。

布団を噛んで叫び声をおさえる。

涙をこらえる方法が、私には分からなかった。

 

 安那はなにも変わらなかった。

私がおはようと言えば、おはようと言う。バカと言えば、カバと言う。だからたぶん変わったのは私のほうなのだと思う。人と人の間に皮膚があるということが、よく分かった。

つまるところ、私たちはひとりぼっちなのだ。親がいようが、親のようなものがいようが、きょうだいのようなものがいようが、私たちは、私は、ひとりぼっちなのだ。どうして、こんな簡単なことを今まで知ろうとしなかったのだろう。少し考えればすぐに分かることなのに。外に出たところでそれは同じだ。それさえ分かっていれば、悲しむことなどなにもないし、寂しく思うこともなにもない。どこにいたって、ひとりなのだからなにを悲しむことがあろうか。

 その日は、買い出しに行く予定で私は寝室で制服に着替えて、ベッドに腰かけてひとり、時間になるのを待っていた。ドアを叩く音がした。時間にはまだなっていない。ドアを開けると、ちびがいた。

「安那から、内線」

「内線、電話?」

「うん」

 私たちは携帯の所持を許可されてない。でも、二人部屋の勉強部屋に電話がある。あまり使うことはない。話したければ、会いに行けばいい。会いに来れない理由があるのだろうか。私は感謝の言葉を述べて、ちびから受話器をもらった。勉強部屋で話をしてもかまわない。だけど、なんとなくちびにわたしたちの会話をきかれたくなくて、寝室に戻った。自分のベッドに座る。向かいにはちびのベッドがある。ベッドはもちろん空だ。通話ボタンを押して、受話器を耳に押し当てた。

「安那?」

「話したいことがある。木蓮の下で待ってる」

 切れた。話したいことなど私には無い。でも向こうにはあるというのだから、なにか安那自身のことについてなのだろう。私は寝室を出て受話器を戻し、机で勉強しているちびに、ちょっと早いけど出てくる、と言った。ちびは、気をつけて、と言った。

私は、うん、そうね、気をつけるわ、と言って、ドアを開けて廊下に出た。私はふうと息を吐き出した。

ちびは急速に大人になっている。まるで今までそれを拒否していたように。背はすっかり私と同じくらいになってしまった。そのうち私を追い抜かすだろう。ちびと須賀家はよく一緒になにかを喋っている。きいてみれば他愛もないことだが、本人たちはいたって真面目に話し合っている。その光景が少しまぶしく、少し疎ましい。

 安那は木蓮の木の下に座っていた。私の姿を見つけ、立ち上がった。

「どうしたの。こんなところで」

「だれにもきかれずに話をしたかった」

 私たちは監視されている。どんな朝ごはんを食べたか、熱はあるか、泣いてはいないか、笑うのはどういうときか、人に触れるのはどういうときか、道徳はどれだけ習得しているか、全部、調査対象だ。ずっと見られているのだから、不思議だとも何とも思わない。だけど、あのカメラに見られたくないとき、私たちは、こうしてカメラから離れた場所に集まる。私は木蓮の木を見上げる。たとえここにカメラが隠されていたとしても、私たちはここに集まるだろう。カメラがない、その前提が大事なのだ。

私は安那を見た。安那は笑った。なぜだろう、久しぶりに安那の笑顔を見たのに、何にも嬉しくなかった。

「買い出し、おちびちゃんと変わってくれないか」

 安那はちびのことをおちびちゃんと呼んでいた。おちびちゃん。

「訊いていい? どうして? どうして、ちびなの?」

 安那は木蓮の木を見上げた。

「なんでだろう。それは俺が訊きたいよ」

 それじゃあ答えになってないよ、安那。だけど、私は物分かりのいいふりをした。

「分かった」

 そう答えた。

「悪い。おちびちゃんにはもう話をつけてある」

 部屋を出てくる前に見たちびの顔が思い出された。

「そう。気をつけて」

 私はそう言って顔を上げて、微笑んだ私の顔を安那に見せた。安那は木蓮から視線を移して私をちょっと見て、私と視線が合うのを避けるかのように、うつむいた。

「うん。それだけ。ありがとう……ごめんな」

 安那は目を伏せたままそう言って、木蓮を離れて、歩き出した。

「気をつけて」

 安那の背中に私は叫んでいた。安那が振り返って頷いて、そして、彼はまた私に背を向けて歩き出した。だけど、私は、その背中に、何度でも、何度でも、叫びたかった。

「気をつけて」

 そう言いながら、木蓮の木の下に私はうずくまった。悲しくはなかった。ただやるせなさと、寮に戻りたくない気持ちでいっぱいになった。ちびに会いたくない。笑顔で送りだすことなんてできない。

 寮に戻らないためにはどうしたらよいのか。

 私は立ち上がって、歩き出した。教室だ。教室へ行こう。

 須賀家はどうしているだろう。分からない。考えている余裕はない。教室に着いた私は、用具箱からバケツを取り出した。水場に水を汲みにゆく。蛇口をひねると水が流れ出した。自分が持っていけるぶんだけ水を入れた。慎重に、ゆっくりと、バケツを運んだ。

 バケツの中に墨汁をありったけ入れる。そして筆をその中につける。

 ばしゃっと墨汁を窓ガラスに塗りたくる。手が届くところまで。真っ黒に塗りつぶす。まずは一つ目。まだだれも来ない。二つ目。今度は液体を手ですくって窓にかけた。まだだれも来ない。三つ目。まだだれも来ない。四つ目。まだだれも来ない。五つ目。まだだれも来ない。六つ目。まだだれも来ない。七つ目。バケツを持ち上げてバケツの中の水を窓ガラスにぶっかける。今まで塗ったところにも全部、かけた。

 こうすればもう、あの星空は見えない。あんな寂しい光景、見なくてすむ。あんな星を見なくたって、私たちの心はいつでも夜のなかにある。

 分かるだろうか。分かってもらえるだろうか、この気持ちを誰かに。

 この黒い窓ガラスのこの意味を。

 それにしても、意外にここの監視はざるなのだな、と思った。だれも来ない。どうしてだろう。私に自省を促して、自ら謝らせるためか。職員室に自ら行って、こういうことをしました、と謝れと? ばかばかしい。せっかくここまでしたんだから、誰かと一緒にこれを見たい。馬鹿だねと言われて、馬鹿でしょと言って、笑い合いたい。

 誰かが走ってくる音がした。やっと気づいたか。怒られるんだろうな、そう思って、抵抗する意思がないことを示すために、両手を挙げて、ドアが開けられるのを待った。

「嘉納?」

 ドアを開けて入って来たのは、ちびだった。

「ちび?」

 私は驚いて、上げていた手を下ろした。ちびたちが帰ってくるのは、もっと遅いと思っていた。

「もう、デートは終わり?」

 私はそう言ってから、うつむいた。なんだかやるせなかった。

「デート?」

 ちびが教室の電気を点けた。私は顔を上げた。ちびの顔を見た。ちびは笑わなかった。

 どうしてだろう。ちびの顔色が悪い気がする。

「買い出しに行ったんでしょう? 安那と、いっしょに」

「どこにも行ってないよ」

 ちびが走って私の前まで来た。

「ずっと寮にいたよ。それより、嘉納、どうして、安那と、いっしょじゃ、ないの」

「どうしてって」

「安那、外で、手首を切ったの」

 安那の顔が思い出せない。安那がうつむいたときに茶色の柔らかい髪が揺れた。きれいだと思ったのだと、今、分かった。

「いま、安那、病院にいる。早く来て」

 ちびが私の手をとった。わたしの真っ黒な手を。

「行こう」

 ちびは走りだした。ちびは教室の中のことには触れなかった。

涙がこぼれた。前が見えない。真っ黒な手で目をこすると、顔が黒くなって、もっと見えなくなるはずなのに、この夜の中でも、ちびの手はただひとつの灯りになって、私を導いてくれた。

安那。どういうことなの。どうして嘘を吐いたの。どうして。

 私たちは学校のすぐ横にある病院に行った。病院には山中先生がいた。血で茶色く汚れた両手を組んで、神さまに祈るように、こうべを垂れていた。長い黒髪が先生の顔を隠していた。

安那の親はいない。彼には、本当に、親がいない。

 須賀家が私たちに気づいて寄ってきた。山中先生は動かない。

「命は助かったみたいだ。ただ傷口が深くて、神経がやられて手が動かなくなるかもしれないらしい」

「安那はどうしてそんなことをしたの」

「分からない」

 かちんときた。私は須賀家の胸ぐらをつかんだ。

「ほんとは分かってるんでしょうっ。あんたはいっつもそう。知ってるのに、何にも教えてくれないのよ。白々しく知らないなんて言わないでよっ。知ってること全部吐きなさいよっ」

 須賀家は、困ったような顔をした。

「ほんとに、知らないんだ。たぶん、俺より、お前のほうが詳しい」

「どうして」

「安那が外に出る前に会ったんだろう? なにを話した?」

 私は、ちびを見た。ちびは私を見ていた。

「ちびと買い出しに行く係りを代わってくれって言われて、分かったって、気をつけてって」

 言って、と言ったところで涙が出てきた。私は須賀家の胸を左手で叩いた。悔しかった。あのとき、わがままを言って、違う、ほんとのことを言って安那を止めることができていたら、こんなことにはならなかった。

「嘉納のせいじゃない」

 私の右肩にそっと手が添えられた。ちびの手。その手はあたたかかった。私はちびを見た。ちびは泣いていなかった。もう一度口をあけて、ちびは言った。

「嘉納のせいじゃない」

 私はちびから目線を逸らした。うつむいた。

背中に手が添えられた。たぶん須賀家の手。その手は、ぽんぽんと優しく私の背中を叩いた。分かっている、そう言われている気がした。

「ちびは、寮にいたんだろ」須賀家が尋ねた。

「うん。寮で、嘉納が帰ってくるの、待ってた。そしたら、安那が」

 私は、先生を見た。須賀家から手を離して、先生の前まで行った。先生は両手を組んだまま顔を上げようとしない。かちんときた私は、先生の腕を引っ張った。先生が顔を上げた。先生は泣いていなかった。

「先生、なにしてたの」

 先生は、私から目を逸らした。先生がわるいの、と先生は呟いた。

「先生、安那をどうして止められなかったの」

先生はすぐには答えなかった。先生は顔をうつむかせた。私たちは先生の言葉を待った。

「そんなことすると思わなかったもの。あなたたちの自傷率がどれくらい高いかなんて先生、知らなかったもの」

 先生は低いかすれた声でそう言った。私は怒りで一瞬、先生を殴りつけたくなった。スカートの裾をつかんでその衝動を必死にこらえて、私は口を開けた。

「そんなの関係ないでしょう。先生だったら、私たちの親代わりの先生だったら、そんなこと知らなくったって、私たちの味方になって、私たちを守ってくれるものでしょう」

 私の言葉に反応してか、先生は顔を上げて私を見た。その目に涙はなかった。

「守れなかったの。私は守れなかったのよ。あなたたちのことだって本当の子どものように思ってるわ。でも、守れなかったのよ。守れ、なか、った」

 最後はまた手を顔にあてて、元の状態に戻ってしまった。泣いているのかどうかは分からない。こんな人をどうして親代わりに思えと言われていたのだろう。私たちに声をかけることもできないような、こんな、弱い、大人を。

 横からそっと白い手が伸びてきた。ちび。ちびは先生を抱きしめた。それはいつか見た光景の再現のようだった。ただ、今回は演じるのが逆だった。

「先生の、せいじゃ、ない」

 先生は顔を上げた。その目には涙があった。はなして、とかすれた声で先生は言ったけど、はなさないとちびが言って、もっときつく先生を抱きしめた。先生は、泣きだした。

 私は、その様子を見ていたくなくて、須賀家がいる場所まで戻った。

「年甲斐もなく大人が泣くのを初めて見たわ」

「弱いなんて思ってやるなよ。大人は、オレたちが考えるほど、大人じゃない」

 そうみたいね、と私は言って、その場にしゃがみこんだ。

 大人は強くない。子どもだって強くない。でももしあの人が本当の親だったら、もっと強かっただろうか。私がやったことを叱りつけてくれただろうか。安那を守ってくれただろうか。

「しまった」

 私は額を片手でおおって、深くため息をついた。

「どうした」

「明日はきっと一日中、教室を掃除しなきゃいけないわ」

「そういやずいぶん派手な化粧してるけど、何したんだ、お前」

「暴れたかったのよ」

 私は笑った。こんな状況でも私は笑える。須賀家は笑わなかった。

「安那もそうだったのかもな」

それが内側に向かっただけで、と言って須賀家は手術室の扉を見た。

私も同じ方向を見た。まだ、だれも出て来ない。

「治ったら、あいつ、一発はたこう」

 ぼそりと言ったのが、また真実味があって、怖かったのよ、と安那には言えなかった。忘れたのだ。安那とあまりにも長く会えなくて。安那の治療はなかなか終わらなかった。安那はそのまま入院した。教室の掃除は、私と須賀家とちびと新しい先生の四人でやった。山中先生は学校を休んだ。何日も、何日も。

私は安那が入院している病院に来た。安那がいる病室に行く前に、病院のすぐ傍に植えられている木蓮を見た。木蓮の花はもうとっくに散っていたけど、葉はまだたくさん残っていた。葉も花弁のように大きくて、美しい。だけど幹が痩せているのが私はあまり好きではない。でもその幹よりも安那は痩せていた。首ののどぼとけが、痛々しい。

「安那。なにか、ほしいもの、ある」

「なにも、ないよ。ありがとう、いつも、嘉納」

 こんな状態でも礼を言う安那がかなしい。そこまで、気遣わせたいわけじゃない。

 私は安那が見ている窓のほうを見た。白いレースのカーテンが揺れている。その外には、白く塗装された落下防止用の柵。その柵は、蔦と花をモチーフにして作られているのか、柵っぽくはない。でも、柵は柵だ。安那がそこから落ちることはないだろう。安那は、いつも窓の外を見ていて、私を見ない。

「安那、私、怒ってないわよ」

 安那はゆっくりこっちに顔を動かした。「怒ってるとは、思ってない」

「随分な自信ね」

「軽蔑されてるとは、思ってる」

 安那は、じっと私を見た。

 安那は、まだ、自分で自分を傷つけた理由を私たちに話していない。私たちに話していないだけで、先生たちには言ってるのかもしれない。でも、安那が自分から言い出さないのなら、訊かないことにしよう、と私たちは決めていた。

「軽蔑なんかしてない」

 安那は笑った。と思ったら、泣いていた。泣き笑い。知ってたか、嘉納、と彼は言った。

「世界に意味なんて無いんだよ」

「どういうこと、安那」

「意味なんか、無いんだよ」

 安那はそばに置いてあった、誰が切ったのか分からない八つに切られたりんごを手に取って、一口含み、咀嚼した。味がしないと彼は言った。「時間ですよ」と病室の隅に座っていた看護師さんが言った。私は立ち上がった。私は安那に、また来るね、と言った。

「さよなら」

 窓から差し込む夕陽の光を背負った安那は、私を見てそう言った。微笑んでいた。涙はもう乾いていた。

なるほど、安那は、飛び降りずに済んだ。

だけど、トイレに服をくくりつけて自分で首を締めて死んだ。それはきたない死に方だった。私はもう十二になっていた。十二の秋。その夜、私は夜空を見て過ごした。

私もまだ大人じゃない。でも子どもでもない。そう思った。

お通夜とお葬式は、山のふもとの葬儀場で行われることになった。私たちは、お通夜とお葬式に参列することにした。学校はお葬式も出てほしくなさそうだった。出なくてもいいんだよ、新しい担任の先生はそう言った。でも私たちは出たいと言った。少なくとも、私には出る目的があった。その場でないと、おそらく会えない人に会いたかった。

さみしいお葬式だった。

喪主は学校の校長先生が務めた。ゆりかごから墓場まで面倒を見てくれるこの学校は、面倒見が良すぎる、と思った。でもこの学校にも問題があって、それは全てが事後対応だということだ。

 お葬式が終わって、立ち去ろうとする山中先生を私は引き留めた。

「山中先生。待って」

 先生を追いかけて、私は葬儀場の外まで出てきた。

「嘉納さん。ごめんなさい」

「違うの。先生を責めるつもりはないの。ただ聴いてほしいの。私の考えたこと」

 先生は顔を上げた。もともとふっくらした顔と体格だったのに、とてもやつれていた。

同じように痩せ細った安那の顔を思い出した。

「先生、安那と、最後に、なにを、話したの」

 先生は下を向いた。話せないか。オーケー。私は、あなたたち大人が弱いということをよく知っている。

「私、誤解してたの。私はね、安那は、あの日、ちびとふたりきりになりたかったんじゃないかと思っていたの。外に出れば、そのチャンスもあると思った。中にいる限りは、無理だけど。安那、ちびのことが好きだったんじゃないかって、私、思った。悔しくて、私、教室の窓を墨汁で真っ暗に塗ったの」

 先生はまだ下を向いている。

「でも、違った。安那がふたりきりになりたかったのは、先生、きっと先生だったんでしょう?」

 先生は顔を上げた。黒い、ガラス玉のような目。

「先生、先生は、分かっていたの、安那が、先生の、息子だって」

「知らなかったわ。知ったのは、彼が手術をして、入院をしたあと」

 嘉納さんは知っていたの、と先生が私に尋ねる。いいえ、と私は答える。

「想像しただけです」

「想像? ふふっ」先生は自嘲するように笑った。

「あなたたち子どもは大人よりよっぽど能力があるわ」

「でも、想像できないこともあります。教えてください、先生。先生は、安那になにを訊かれて、なにを言ったの」

 先生は、学校のあるほうを見た。ここからでもよく見える、白い学校。赤レンガの病院。

「先生、おれのこと、愛してる?」

 なんて馬鹿なことを訊いたのだろう。安那は。そんなの、答えは、分かりきっている。

「ええ。愛しているわ、みんな、のことを」

 そう答えたの、と先生は言った。

「孤児は、治験に参加できないってきいたことがあります」

「彼は孤児じゃない。校長先生の養子になっているの。だから、治験にも参加できたの」

「どうして、安那を自分の手で育てなかったのですか」

「兄が両親と祖父母を殺したの。私は大学にいて助かった。聡、安那くんは、保育園に居て助かった」

 でも、最後は助からなったんだ、と私は思った。少し灰色がかった雲が流れてくる。風がみょうにあたたかい。雨だろうか。

「先生は代理母なの」

「そう。安那くんは、私の両親の子どもよ。お金がなかったから、だれかに頼むことなんてできなかった。だから母の卵子と父の精子で作られた受精卵を私の子宮に入れて、私が安那くんを産んだの」

 二ホンでは一人一子以上政策が施行された。一人に子どもは一人持たなければならない。だれか全く関係のない人に子どもを産むのを頼む裕福な人たちもいるけど、先生みたいな人も多いのだと、私は、最近、告知を受けて知った。自分の産みの親がそうだった。ほんとの両親であり祖父母でもある人たちが、私に会いたいと言ってきていた。会ってみようかとも思った。

「先生は、安那も愛していたんですね」

 先生は泣き出した。

「私は、恨むわ。一生恨むわ」

 なにを恨むというのだろう。

学校を? 病院を? 家族を? 政府を? 世の中を? 安那を? 自分を?

 恨んだってなにも変わりはしないことは、私がこの数か月でよく分かったことだ。

 だけど、この人が死ぬことを安那は望んではいないだろう。

 でも、この人の影は、はかない。

「恨むなら、私を恨んでください、先生」

 そう言ってわたしは、カッターナイフを取り出した。

刺した。

先生の両手を。

先生は呻いて、地面にうずくまった。私は、先生のそばにかがんで、口を開いた。

「これで、先生は、もう他の子どもたちを抱くことはできません。あなたの手のあたたかさを覚えているのは、もう、安那と私たちだけです」

 私は先生の両手を薄いハンカチで包んだ。

「病院と警察の方が葬儀場にいます。手当てをしてもらいましょう」

 私は先生を立ち上がらせた。先生の腕をひいて、葬儀場に戻る。異変に気づいた警官が駆け寄る。

「先生を殺そうとしました。殺人未遂です。捕まえてください」

 先生の手当てをお願いします、という声は、嘉納と叫ぶちびの声にかき消された。

「さよなら」

 私は笑った。

 

 

   四

 

 嘉納トモは、医療少年院への送致が決まった。

 わたしは裁判を傍聴することはできなかった。だから、この記録は、わたしが、様々なつてを使い、彼女やその周辺の人々が言ったことを調べてまとめて記したものだ。もちろん、わたし、辻想起の経験も含まれている。

安那からわたしはおちびちゃんと呼ばれていた。安那と嘉納はわたしより背がめっぽう高かった。かつては、ふたりと話すときはだいたいにおいて見上げなければいけなかった。

だからわたしはいつも首と肩がこっていた。安那たちのせいだ、とわたしがふたりを非難すると、でも須賀家はたぶん首も肩もこってない、と安那に言われた。須賀家に尋ねると、そうだな、首も肩もこってはいない、という回答を頂戴した。わたしがいつまでも須賀家を睨みつけていたせいだろう。須賀家はこう言った。

「見上げてまで話さなきゃいけないような相手か、あいつらは」

 須賀家も背が低い。私よりは高かったが。でもたぶん須賀家は、誰よりも高い場所にいたような気がする。

安那が言った。

「須賀家は死ぬときには死ぬって自覚せずに死にそうだな」

「どうだろう。死ぬって決めて死ぬ気がする」

 そんな死に方はごめんだなあ、と安那は言った。

嘉納は、それかっこいい、かっこいいねと呟いた。どこがかっこいいのさー、と安那が尋ねると、嘉納は、死ぬことは受け入れられないもの、なかなか、と言った。須賀家は声を出さずに笑い、皮肉なのか、お前にしては面白い、と言った。思うことをそのまま言っただけ、あんたを嗤わせる気なんてこれっぽっちも無かったわ、と怒ったように言って、嘉納はむくれた。 

だけどその実、嘉納は、ほんとは、思うことをなにひとつ口に出せてはいなかったのではないのだろうか、といまのわたしはそう思う。

わたしと嘉納は、よく嘉納のベッドでいっしょに眠っていた。喋っていたら、いつの間にかわたしが眠ってしまった、と言うほうが正しいかもしれない。わたしは行こうと思えばいつでもとなりのわたしのベッドに行けたし、嘉納もしようと思えばわたしを起こして、半ば眠っているような状態のわたしをとなりのベッドにつれていくこともできただろう。だけど嘉納はそれをしたことは無かった。

安那が死んだあと、一度だけ、真夜中に嘉納のベッドで起きたことがある。わたしは自分のベッドにいるのかもしれないと思ったが、ベッドの香りで、嘉納のベッドの上で横になっているのだとわかった。嘉納の使うシャンプーのいい匂い。ゆっくり起き上がり、嘉納の姿を探す。嘉納は、窓の下に座っていた。口を少し開けてわたしを見ていた。眠れない、と嘉納の口が動いた。わたしは嘉納のそばまで行って嘉納を抱きしめた。嘉納の体は冷たかった。わたしは嘉納の首に手をあてて、ほんとうに嘉納は生きているのかを確かめていた。寒いからだよ、首が、こんなに冷たい、と嘉納に言った。

「そうね。つめたかったわね」そう嘉納がつぶやいた。

「違う。嘉納が、いま、冷たいんだよ」私はそう言った。

 それは私がもう死んでいるってこと、と嘉納は言った。全然面白くなかった。わたしは、嘉納を立ち上がらせ、ベッドまで手をひいて連れていき、嘉納を抱きしめ続けた。嘉納の体はちっともあたたまらなかったけど、嘉納が寝息をたて始めたのを確認してから、眠った。嘉納が本当に眠れていたのかどうか、もう分からないし、知りようもない。

 わたしが書いた事件が起こるまでのあらましは、間違っているかもしれない。

 それはそうだ。他人のこころなど結局理解することはできない。

 だけど、わたしには、やっと分かったことがある。

 嘉納は、先生を殺さなかった、ということだ。

 そんなふうに報道はされなかったし、学校でも教えてもらえなかった。

 だけど、きっとそれが真実だ。

 そこに至るまでの過程は虚構かもしれないが、最後に得たもの、それは、彼女が守ろうとしたものだった。

 やっと分かったよ、嘉納。

「もう三月なのに」

 二人部屋にいるのはわたし一人。

須賀家直仁はこの学校を出て別の中学に通うことになった。安那聡は、いまも山のふもとでねむっている。

今日は卒業式だった。

写真はいっぱい撮ったはずだったのに、卒業アルバムには、だれものっていなかった。わたし以外のだれも。可笑しかった。無かったことにしてしまえるはずがない。少なくともわたしのあたまには、こころには、からだには、その記憶が残っている。わたしたちの苦しみを、先生のかなしみを、そして何より嘉納の千々に千切れたこころを、わたしは残したかった。わたしたちは生きていたのだ、と苦しみながら、でもふつうに生きていたんだと、この学校の子たちに知っておいてほしいと思った。だから、ペンを執った。

 わたしたちは、Oという神経伝達物質をうみだすO産生細胞を増強された。もともと、その細胞数が少ないか、ゼロに近かったからだ。だから、Oがあることでわたしたちはふつうの人間と同じように感情を、特に愛情を取り戻したと思われている。

だけど、人は差別が大好きだ。

他人を見下げることが大好きだ。

わたしたちを見下げて、忌避して、排除して、違う人間だと思いこもおうとしている人たちがいることも知っている。嘉納の事件は、その絶好の機会だと思う。でも、そんなことはさせない。少なくともこのノートを読んでくれるあなたたちこどもたちには伝えたい。

わたしたちはふつうの人間だ。

嘉納は人を殺そうとしたわけではなかった。むしろ、生かそうとしたのだ。ある枷を、山中先生につけることで、生きない理由をなくしたのだ。

その方法は間違っていたかもしれない。

でも、間違いを犯してしまうのが人間でしょう。

間違いを犯さない人間などいないでしょう。

ふつうであろうとして、ふつうから逸脱した行動をとってしまった、ただの人間なのよ。

わたしたちは、みんな、ただの、人間。普通の、人間、なのよ。

わたしは頭の中にある四人で撮った写真を思い浮かべる。木蓮の下で撮った写真。安那が笑い、その横で嘉納がむくれ、須賀家はまっすぐに前を見て、わたしがぎこちなくほほえむ写真。それは、もうわたしの頭の中にしかないけど、確かにそれはわたしのなかにあった。あの木蓮の花がいま、再び咲く。木蓮の咲いたそのとき、わたしたちの時は止まり、そして。

 

春だけが、わたしたちのもとへやってくる。

 

小説『六十歳になったら死にたいの』(ブンゲイファイトクラブ予選落選作品)

 


「六十歳になったら死にたいの」
「はあ」
 ぼくらが初めて会話をしたのは、樟彰子(くすのきあきこ)がひとりで喫茶店に来ていたときだった。
 そのときはテーブルもソファもいっぱいで、カウンター席の樟彰子の横しかあいてなかった。だからぼくは彼女の右どなりに座った。ぼくは樟彰子ではなく、樟彰子と一緒にしばしば連れだって来ていた女性のことをすてきだと思っていた。でもそのとき、樟彰子はひとりだった。ぼくはどちらかというと胸の大きな女性が好みで、腕をつかんだらぼきっと折れてしまいそうな樟彰子は、好みではなかった。でもだからこそ緊張せずに、樟彰子に話しかけることができたのだと思う。
「ねえ、いつも一緒に来てる女性、今日は一緒じゃないの?」
 樟彰子は、ぼくの顔を見た。彼女のほほに涙がつたった。彼女の大きな目を見てぼくは思いだした。「もしかして、あの子、キャサリン・メーニッヒすきだった?」樟彰子の大きな目がさらに大きく見ひらかれた。「どうしてわかるの?」「ちょっときみに似てる」樟彰子の顔はゆがみ、樟彰子は大声をあげて泣いた。
 樟彰子と一緒に来ていた胸の大きなあの子はもう喫茶店に来ることはないとわかったわけだけど、その後もぼくはその喫茶店に通い続けた。ぼくにとってその喫茶店は、ぼくがぼくであることを放っておいてくれる場所だったし、しずかだし、でも話そうと思えば話すこともできる人がいた。なんというか、ぼくだけの場所だった。樟彰子もひとりできつづけた。樟彰子は様々な変なものにはまっては、ぼくにすすめてきたが、ぼくはそれを断りつづけた。ぼくに断られるたびに、樟彰子は重たそうに頭をかたむけてから、「そうなの?」と言って、コーヒーを口にふくんだ。
 ぼくには樟彰子と知りあったあとに付き合い始めた恋人がいた。その恋人から、マンションの更新がもうすぐなの、と言われた。うーんと言いながらぼくは喫茶店にむかった。その日も混んでいた。あいている席は樟彰子の横しかなかった。ぼくはカウンターのその席に座った。ブレンドを頼んだ。
「ねえ木野くん」
「なに?」
「六十歳になったら死にたいの」
「はあ」
「どう思う?」
「そのまえになんで死にたいの?」
「わかんない」
「わかんないの?」
「わかんない」
「わかんないのかあ」
「ねえでもこんなことほかの人に話せないじゃない?  親とか。心配するじゃない」
「ぼくはきみのことを心配しないときみは思っているの?」
「そうだよ」
「ああ、そう。そうですか」
「それでね、わたし六十歳になったら死にたいの。どう思う? 」
「だめなんじゃない」
「だめなの? なんで?」
「そんなこと言われたら、とめるよね、普通」
「とめるの? 木野くんでも?」
「ぼくでもって。まあ、ぼくでもとめるね。とめるよね。気持ちはわかるけどさ」
「わかるの? わたしの気持ち」
「わかるよ」
「そっか」
「うん」
「そっか!」
 樟彰子はうれしげに笑った。大きな口だなあと思った。「佐伯さん、ごちそうさま!」樟彰子は立ちあがり、勘定をすませ、喫茶店から出て行った。ぼくはこのとき初めて喫茶店の店主が「佐伯」という名前だと知った。それが樟彰子を見た最後だった。
「最近、あの子きませんね」「あの子、死んだよ」と佐伯さんは言った。佐伯さんは音楽を変えた。ラヴェルパヴァーヌだ。「木野くん」「はあ」「きみは六十歳になったら死にたいと思うかい?」佐伯さんはぼくより十は年上に見えた。四十歳くらいだろうか。「わかりません」
 ぼくは喫茶店をでた。恋人に電話をして樟彰子の話をした。恋人はただ黙って話をきいてくれた。ぼくは言った。「結婚しよっか」「うん」ぼくらは結婚した。
 それからいろんなことがあった。二十年。 ぼくは五十歳になっていた。そして、ぼくは先日離婚した。離婚した理由は、妻だった女性が、こどもがほしいと言って、ぼくより二十歳若い恋人と結婚することを決めたからだった。科学の進歩というのはすごい。男も女も妊娠できるようになった。子育てには体力がいる。そして資金もいる。それなら元妻が妊娠するより、五十歳のぼくが妊娠するより、三十歳の恋人が妊娠するほうがいいと元妻は考えたようだった。
 ぼくは足が遠のいていたあの喫茶店にいってみた。もうなくなっているかもと思っていたのだが、あった。外装は少しきれいになっていたが、雰囲気はそのままだったし、なにより名前が変わっていなかった。
 喫茶店のなかに入ると、客はだれもいなかった。ぼくはカウンターに座った。カウンターのなかには佐伯さんがいた。髪の毛は真っ白になっていたが、佐伯さんだった。
「木野くん。事業承継に興味ない?」
「どういうことですか」
「おれ、もうすぐ六十になるんだよね。どう?」
「はあ」
 そんなわけでぼくはいまカウンターのなかにいる。佐伯さんは六十で死んだ。
 夜は店内で昔の映画とかを上映した。金はとらない。上映中は注文もとらなかった。ぼくも一緒に見るからだ。上映後は一時間だけ 観客のために喫茶店をあけた。
 今日は『Lの世界』を上映した。観客は男性しかいなかった。上映後、妊娠をどっちがするかで悩んでいる、ぼくはしたくない、昔はこんなことで悩まずにすんだのに、とぼやく男性たちがけっこういた。
 むかしは。
 悩んでいなかったのだろうか。
 ほんとに?
 カウンター席に、レスリー・チャンに似た男性客が残っていた。ひとりで。ぼくはたずねた。
「『さらば、我が愛 覇王別姫』、見たことある?」

書き上げた小説を置いてゆきます

 青山白雨という名前で、小説を書いて小説の賞に応募しています。

 応募したもので落選したものをこのブログに載せます。

 はてなブログを選んだのは、なんとなく居心地が好いからです。

掲載作品

・ブンゲイファイトクラブ落選作

 

・某SFコンテスト二次落選作の構成を変更して改稿したもの(wordで書いたものをはてなにはりつけてみたのですが、ここから、HTMLでなおすのがたいへんそうなので、これ以上体裁はいじらないことにします)(推敲は重ねましたが、校正は入ってません)(改稿したのはだいぶ前です。いま推敲しなおせばかなり変わると思うのですが、このままとしたいと思います。今読むと、いろいろな配慮が行き届いていない気がしてなりませんが、当時のまま掲載します)